、それ以上に深いツナガリは何一ツ見られません。
 子供のママゴトは、まだ見ていても気楽で救いがあるなア。人形にたべさせる御馳走だって、ママゴト遊びのオモチャのマナイタの上でこしらえたもので人間の食べられない物か、食べることができるにしても好んで食べたいようなものではない。オフロに入れるにしても形ばかりで、本当に湯を入れてやるわけではない。だから人形が本当は食べることができなくとも、気にならないね。
 この婦人の場合はそうじゃないね。本当に食べることのできるもので、自分の食べ物と同じ御馳走なのだ。それを人形の口まで持って行っても、人形が食べることができないのだから、ハシにはさまれた食べ物が口のところで停止して、たとえばウドンがダラリとアゴから胸へぶらさがったときに、この人が泣かずにいられるのがフシギなのだ。人形の口の前で停止した食べ物の始末をいかにすべきや、そのいかんとしても意をみたすにスベもない悲しさに気がちがわずにいられるのがフシギなのさ。
 大人が何かを愛すということは、こんなものじゃありませんよ。愛す、ということには、その人のイノチがこもるものですよ。とても、とても、子供のママゴトのような、ウスペラなマネゴトですむものではございませぬ。
 人形の口の前まで持ってって、人形がたべたつもりで、それを自分が本当に食べてそれで安心できるのかねえ。人形の食べないことが悲しくならないのは分るが、しかし、その場合には、自分が物を食べるというウス汚い事実に、気がちがわないのかなア。食べるということはウス汚くはないのだけれども、自分の愛する者が実際には食べない場合には、自分が物を食べるということは、ずいぶんウス汚くって、やりきれないと私は思うな。たとえばマツムシだのスズムシなんてものでも、夫婦の一方が物を食べなくなった場合には、一方も物を食べずに餓死するような気がするなア。もっとも、気がするだけで、餓死自殺はやらないね。メスの方がオスの方を食ってしまうそうだね。これも大いに分りますよ。豊島与志雄先生は名題《なだい》の猫好きで、多くの猫と長年の共同生活であるが、何が一番食いたいかというと猫が食いたい、それも自分のウチで飼ってる愛猫が食いたいとさ。本当に愛すということは、その物を食いたくなることだという豊島さんの持論だが、この壮烈な食慾的愛情も分らんことはない。私は胃が悪くって、あ
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