したい気持は山口さんだけに限らない。現実を遁走するにも、女房を愛すことができなくて遁走することもあるだろうが、むしろその逆の方が遁走力が強いらしいね。たとえば、女房子供を愛しているが、自分に生活力がなくて、女房子供に満足な生活をさせてやれない、というような罪悪感から遁走の方向に心が向くというような場合だね。むしろその方が遁走の原動力として多く在りうることらしいや。だいたい心のハタラキの基本的な公式というものは、カンタンなものだ。そして、そのような遁走の期間中の行動または意識上に女というものが出てくる際には、それは恋人の女ではない場合がむしろ普通だろうね。彼の正常時に於ては、犯罪を犯して女房子供を養うようなことはできなくて、彼は熱心に職を探したがその職もない。すると彼は遁走中に犯罪を犯して女を養うという形で、女房子供にみたしてやれなかった償いを果そうとしている。つまり遁走中の女や犯罪は、女房子供に対して自分が無能力であるということの自責の果だ。そんな風なこともあるだろう。健全な人間の心理にも、そういう償い方はフシギではない。もっとも、そんなにもってまわったものではなく、単純に「性と犯罪」だけなのかも知れません。人により、いろいろ様々で、山口さんの場合がどうだか、その真相は見当がつきません。
 しかし、要するに、こういう病気というものは、心理を解いてみたって、どうなるものでもない。病人の隠れた心理を指摘して、心の誤りを訂正してやったところで、実際の故障はすでに心にあるのじゃなくて、生理的な故障、機械のどこかが故障しているのだ。
 狂った心理の解釈は明らかにされても、悩みを解決したことにはならんね。その願望がみたされなければどうにもなりやしないじゃないか。また、その願望のみたされない場合に、人は必ずキチガイになるというわけではない。ならない人の場合が多いね。要するに機械の故障だけが問題さ。病院で電気ショックをやってるそうだから、彼は遠からず記憶をとりもどすでしょう。彼の記憶喪失は分裂病のように異常状態の表れが複雑じゃないから、故障もごく単純なような気がするのさ。こう手軽に見るのは素人考えかも知れんが、パチンコ屋のオヤジ式にトントンと叩くうちに正常にかえりそうだよ。
 しかし、正常にかえって後、この青年が就職して然るべき俸給をもらい、妻子に世間なみの幸福を与えることによって
前へ 次へ
全16ページ中11ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング