払って見知らぬ街へ歩きこみ、小さな酒場へはじめて行って、その女に惚れたことがある。翌日酔わずにその店を探したが、どうしても分らない。たしかに、ここの筈だが、と思って、同じ店を三度も四度もまちがえて笑われたことがあったね。その日はあきらめたが、泥酔して出かけると、きわめて自然にちゃんとその店へ辿りつくのである。泥酔しなければ、どうしても違った店へ行ってしまう。違い方もいつも同じだ。酔えば自然に辿りつく。何回となく二ツのことをくりかえしたことがありましたよ。そのうちに酔わなくとも行けるようになりました。お酒のみの方は思い当りはしませんか。
ある時間の記憶を失ったり、酩酊というモーロー状態にならなければ辿りつくことができなかったり、精神病の状態と同じようなことを我々の日常に経験するのは決して珍しいことではないね。もっとも酩酊も一種の精神異状に相違ない。
山口さんの場合は、失踪してから電話ボックスで記憶を失った時まで四ヶ月ぐらい経過しているようだ。失踪した時の精神状態、そして四ヶ月間の精神状態はどうだったのだろう。その時間に何をしたかということはアミタール面接でもハッキリとは分らないのか知らん。それが分って、その期間に彼と接した人の手記があると、素人にも何とか手がかりがあるが、この手記からは、てんで判断の仕様がありません。
ただ、この手記から分ることは、彼の判断力はほぼ正常なものだが、電話ボックス以前の記憶だけが失われているということだけだ。
「判断力があって記憶だけないのは信じられん。ニセ病人だろう」
と云った人が数人あった。別に信じられんことはない。我々の健全な時でも、ド忘れしたり、ちょッと記憶だけ霞んだりということはママあって、思いだそうと焦ってもなかなか思いだせないことは常時あることだ。我々の日常生活にそのキザシがあるということは、病気の際にはその完璧なものがありうるということで、人間の心の故障というものは、元来そういうようなものだ。もっとも、キチガイは必ずしも単純ではない。気が狂ってる最中でも色々と策をめぐらし、ひどくセチ辛い複雑な精神生活をしているもので、潜在意識的に一本の精神生活をしていると思うと大マチガイさ。
山口さんの場合は、電気ショックでカンタンに治りそうだね。記憶喪失は一種の遁走のハタラキだと物の本などには書いてあるかも知れんが、現実から遁走
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