ことを国民のギセイに於て行うような神がかりの気チガイ沙汰へと発展して行くにきまってるのである。
 村の発展は青年のギセイ精神にまたねばならん、などと云うのは、どうせ中年老年どものクリゴトにきまっているが、ギセイの必要あらば、そういう御身らが曲った腰にムチうって自ら進んでギセイたるべし。ギセイというものは自発的になすべき行為で、人にもとむべきものではない。人に強要されたギセイは、ギセイとは別個のもので、人を奴隷と見ることだ。人の労に言葉で報いて美しくすますようなことも、根は同じく、封建、奴隷時代の遺風だ。物質を卑しみ、精神的なものを美しとするのも、人間を奴隷的にタダでコキ使うに必要だった詭弁にすぎないものだ。
 実際は、物質で処理しうるもの全て物質で処理する秩序が確立すると、本当に内容充実した礼儀やモラルが実生活の表面へハッキリ押しだされてくるのである。即ち、人の勤労には必ずそれだけの報酬せよという習慣が確立しておれば、村の発展は道路工事にあり、されど金なし、義人現れて奉仕せざれば村の発展なし、と分って、自ら先じて黙々と道路工事の奉仕に当る。真に村を憂うる者が黙々と村に奉仕するのは自然で
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