「チャタレイ夫人の恋人」を告発した検事長なる人の言説を見ると、すでに感情的であるだけでも、法を運用する者としては落第していると私は思った。感情というものは、目隠しするもので、広い視野を失し、中正を失するものだ。仕事の上の説話に当ってこういう感情的な表現や放言をするようでは、法律家の資格はない。これが「長」と名のつく法の運用者であるから、なさけない。伊藤整の方が、よほど冷静で中正を失くしていない。法に対処した態度に於て、アベコベの結果を見せている。「チャタレイ夫人の恋人」がいかように裁かれるにしても、告発者の感情的な態度は、法律によっては許されても、人間によっては許されないものと知るべきであろう。
私は法を運用する人々は最も邪教の要素から絶縁される必要があると思うから、法の運用にからまる邪教的な要素というものが、甚しく気にかかる。そして、その観点から、検事の訊問ぶりや、論告や、判事の判決の具体的な例をとって、巷談で扱ってみたいということも考えていた。けれども検事の訊問というものは、垣間見るわけにもいかないから、適切な例を知ることができない。
犯罪というものは、ぬきさしならぬ物的証拠を
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