ぬ限り、他に害を及ぼすものではなかろう。邪教退治というものは、新興成金にヤキモチをやきすぎる傾き濃厚で、もっと大きな悪質の狸は、他にゴロゴロしているようだ。
私が巷談で邪教を扱ってみたかったのは、お金もうけのカラクリなどをバクロしようというのではなく、どういう人間が、どういう風に信仰し、どういう効能に浴しているか、効能の実際の方を見たかったのである。その効能が狂信者の幻覚上の存在にすぎなくとも、その当人にとって、効能は効能である。宗教の法悦というものは、それに無縁の私にとっては、大そう興味が深いのである。その謎をきわめたかったのだ。つまり、ヤジウマにすぎないのである。
しかし、日本人の信教には物見遊山のような要素が多いようだ。道楽の一ツで、そのために産をつぶしてくやむところなし、とあれば、他人が気に病む境地ではないらしい。
私は以前、取手《とりで》という利根川べりの小さな町に住んだことがあった。ここは阪東三十三ヵ所だか八十八ヵ所だかの札所で、お大師参りの講中というものがくるのである。先達に引率された婆さん連などであるが、宿屋でドンチャン騒ぎの狂態といったらない。しかし、そういうも
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