い、という。そして、だから、天才というのではなくて、ネバリ屋だなどゝ、言いだしベイは誰だか知らないが、商売人までみんなそう言って、それですんでいるのである。これ即ち、十秒三の吉岡流であり、箱庭水泳のタイム流というもので、競り合いに現れてくる力、勝負の差はそれが決定的なものだということを知らないのである。人事をつくして(というのは、合理的な訓練をつくした上で)最後には競りあいに賭ける。そのとき現れてくる力の差が、本当の力の差である。フォームが美しくて、独走とか独泳にさいしてピッチに閃きがあるといっても、競り合いで役に立たなければ、ダメなのである。棋理に明るいったって、力ではない。理に通じることと、レースの強さは別のものだ。
すべてを試合にかける、出たとこまかせだ、というと、いかにも明快で、選手の心事は澄んでいるようであるが、そうは参らんものである。練習をつむにしたがって、自分の力の理にかなった限界というものは、これを知るまいと努めても、チャンと感じられてしまうから困る。ジャムプなどゝいう足のバネに依存するスポーツとなると、足の毛が一本ぬけたぐらいの重量の変化がしつこく感じられるぐらい、
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