箱庭流のタイム屋だ。しかし、日本の選手だって、レースに於て賭けることを忘れているわけはない。現に古橋のような超特別のレース屋も現れている。しかし外国選手はレース屋という点では、たいがい古橋に負けず劣らずだ。これは食べ物の相違、体力の相違と見るべきかも知れない。
運動選手というものは、練習中に、自分の最高タイムを知る、というやり方は、あんまりとらないものだ。限界が分ると困ったことになるからだ。ジャンプ競技は特別そうで、自分の限界へくると、バアを一センチあげても、一尺あがったような恐怖を感じてしまうものだ。この恐怖を克服するのは並たいていのことではない。そこで、ふだんはバネをつける練習に主点をおいて、本当に飛ぶ練習は、フォームの練習だけにとめておく程度で、全部を試合に賭ける。競走にしろ、水泳にしろ、レースというものはタイムではなくて、競りあいなのだから、練習というものによって、力を技術的に合理化したアゲクに於ては、結局、競り合い、相手次第の賭が全部ということになるのだ。
碁や将棋でも同じことで、呉清源や、木村や、大山は、特に妙手をさすでもなく、技術はさほどぬきんでてもいないが、勝負づよ
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