はできない。力というものを見ることができないのだから。それは、せり合いがあり、選手の身にしてみれば、賭の上にも無慈悲な賭が重なって、そして現れてくるものだから。

          ★

 こんな礼儀正しい観衆は、終戦以来私ははじめて接した。
 私は応援団というものがキライである。応援団もユーモアを解し、美を解することを心得ていればよろしいけれども、たとえば対抗野球の応援団などゝいうものは、殺伐で、好戦的なものである。今度の中等野球の予選では、富山のどこかの学校が、審判の判定に不服でグランドへなだれこんで、審判をなぐり倒したそうである。
 スポーツは勝負を争うものではあるが、好戦的なものではない。礼節と秩序のもとに競う遊びにすぎない。応援団というものは、スポーツから独立して、勝敗だけを旨としており、愛校心という名をかりて、いたずらに戦闘意識をもやしており、あの校歌だの応援歌というものは、坊主のお経によく似ているなア。あゝいうブザマな無芸な音響は、つつしまなければいけない。集団の行動というものは、底に意気(粋)の精神がなければ、ジャングルの動物群とそう変りはないものだ。応援団には粋の心
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