が全部、それでつきるものである。裸体とても同じことで、生のままの裸体を舞台へそのまま上げたって、色っぽさは生れやしない。脚本がうまくても、どうにもならない。舞台の上の色ッぽさというものは、芸の力でしか表現のできないものだ。
 顔も裸体も決して美しいとは云われないヒロセ元美に人気があるというのは、見物人が低脳でないことを示している。舞台の色気というものは、誰の目にもしみつくはずだ。とにかくヒロセ元美の裸体にだけは色気がこもっている。舞台の上で、一人の女に誕生すること、それは芸術の大道で、ストリップも例外ではない。生のままの裸体の美などというものは、これから一しょに寝室へはいるという目的や事実をヌキにして美でありうる筈はなく、その目的や事実をヌキに、単に裸体をやたらにさらけだされては、ウンザリするばかり、この両者のバラバラの結びつきは、因果物の領域だ。見る方も、見せる方も、因果物なのである。
 しかし、因果物というものは、いつの世にも場末に存在するもので、私も因果物を見るのがキライではない。しかし、ストリップは因果物になりきってもいない。誰も好んで因果物になりたくはなかろう。困果物というものは、それを見る方も一匹の困果物に相違ないから、因果物になるには覚悟や心構えがいるように、因果物を見る方にも、覚悟も心構えもいるものだよ。誰だって、自分自身が一匹の因果物だなどと好んで思いたくはないが、こうむやみに芸なし猿の裸体ばかり押しつけられると、自分まで因果物に見えて、気が悪くなるよ。
 阿部お定女史が舞台に立ちたいというから、あのときは私が半日がかりでコンコンと不心得をいさめたのである。本人が舞台へでるというのは、因果物だからである。生の裸体が舞台へあがるのも、それと同じことである。美や芸術は見る人を救うが、ストリップは因果物の方へ突き落してくれる。

          ★

 8888という自動車は浮気のできない車だ。この車の持主は文藝春秋新社。私はこの車にのっている。半死半生である。私がこの車にのるときは、銀座から、新宿、上野、浅草へと駈けまわる運命にあるようである。今度もそうであった。
 浅草の染太郎へたどりつく。
「ちょッと淀橋タロちゃん呼んで下さい。どッこいしょ。死にそうだ」
「それが、先生。タロちゃん、出世しやはりましてん。撮影所へ行ってはりますわ」
「ヤヤ。タロ
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