の魅力というものは、裸体になると、却って失われる性質のものだということを心得る必要がある。
やたらに裸体を見せられたって、食傷するばかりで、さすがの私もウンザリした。私のように根気がよくて、助平根性の旺盛な人間がウンザリするようでは、先の見込みがないと心得なければならない。
まず程々にすべし。裸体が許されたからといって、やたらに裸体を見せるのが無芸の至り。美は感情との取引だ。見せ方の問題であるし、最後の切札というものは、決してそれを見せなくとも、握っているだけで効果を発揮することができる。
だいたい女の子の裸体なんてものは、寝室と舞台では、そこに劃された一線に生死の差がある。阿部定という劇にお定当人が登場することが、美の要素であるか、どうか、ということ。生きた阿部定が現れることによって美は死ぬかも知れず、エロはグロとなり、因果物となるかも知れない。
歌舞伎の名|女形《おやま》といわれる人の色ッぽさは彼らが舞台で女になっているからだ。ところが、ホンモノの女優は、自分が女であるから舞台で女になることを忘れがちである。だから楽屋では色ッぽい女であるが、舞台では死んだ石の女でしかないようなのがタクサンいる。ストリップとても同じことで、舞台で停止した裸体の美はない。裸体の色気というものは芸の力によって表現される世界で、今のストリップは芸を忘れた裸体の見世物、グロと因果物の領域に甚しく通じやすい退屈な見世物である。
いくらかでも踊りがうまいと、裸体もひきたつ。私が見た中ではヒロセ元美が踊りがよいので目立った。顔は美しくないが、色気はそういうものとは別である。裸体もそう美しくはないのだが、一番色ッぽさがこもっているのは芸の力だ。吾妻京子がその次。しかし、生の裸体にたよりすぎているから、まだダメである。舞台の上の女に誕生することを知らないと、せっかくの生の裸体の美しさも死んだものでしかない。
セントラルのワンサの中で、小柄の細い子で、いつもニコニコ笑顔で踊ってるのが、私は好きであった。浅草小劇場で、踊りながら表情のクルクルうごく子が可愛らしかった。ニコニコしたり、表情がクルクル動いたり、たったそれだけでも、無いよりもマシなのである。たったそれだけで引き立つのだから、ほかの裸体はみんな死んでるということで、芸なし猿だということだ。
女の美しさというものは、色気、色ッぽさ
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