て、こんなフシギな逃げ方をすることは考えられないのであるが、石川淳だけが、これを為しとげたのである。熱海の火事でも、いろんなウカツ者がいて、心気顛動、ほかの才覚はうかばず、下駄箱一つ背負いだしたとか、月並な慌て者はタクサンいたが、一気に多賀まで逃げ落ちたというのは他に一人もいなかったようだ。
石川淳は菅原をひきつれ、風下へ、風下へ、ひたすら逃げた。それでも全部の人心地を失わなかった証拠には、錦ヵ浦の真ッ暗闇のトンネルに突き当ってはハタと当惑。ここくぐるべきや、立ちすくんで、考えこんだ。
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もとへ戻れば火が食いつくし
先はマックラ、トンネルだア
どうしよう
神さま、きてくれ
石川淳を知らねえか
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ついに意を決してクラヤミのトンネルをくぐりぬけ、二里の難路を突破して、一命無事に伊豆多賀の里に辿り着くことができた。古《いにしえ》に三蔵法師あり。今に石川淳あり。かほどの苦難の路は、凡夫は歩くことができない。
事の真相をここまで打ち開けて語るのはツレナイことかも知れないが、石川淳の逃げだした起雲閣という旅館は、隣まで焼けてきたがちゃんと残ってい
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