身支度ととのえ終って、旅館をとびだす。宿へついて、お茶をのんで、お菓子をくって、温泉につかってとびだしただけだから、
「要するに、君、ぼくは熱海の火事で、菓子の食い逃げしたようなものさ。茶菓子代ぐらい払ってやろうと思ったが、旅館の者どもは逆上して、客のことなぞは忘却しているよ。アッハッハ」
と、自分だけ逆上しなかったようなことを云っているが、なんと石川淳は菅原をひきつれ、十分ぐらいで到着できる来ノ宮駅へも、二十分ぐらいで到着できる熱海駅へも向わずに、ただヤミクモに風下へのがれ、延々二里の闇路を走って、多賀まで落ちのびたのである。
彼の前方から、逆に熱海をさして馳せつける自動車がきりもなく通りすぎたが、同じ方向へ向って急ぐ者とては、彼らのほかには誰一人いなかった。彼らは一人の姿も見かけることができなかったが、事実に於て、この夜、彼らと同一コースを逃げた人間はたぶん一人もなかったはずだ。多賀へ行くには電車があるもの。電車はたった一丁場だが、これを歩けば錦ヵ浦から岬をグルグル大廻り、二里もあるのだ。土地不案内な人間なら、よけい雑踏の波から外れて逃げるものではなく、どう、とりみだしたっ
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