ときであった。
 火元はキティ颱風でやられた海岸通りの道路工事をやってる土建なんとか組の作業場で、十九か二十ぐらいの若い二人の労務者が賭をした。
「タバコをガソリンの上へすてるともえるかもえないか」
 という賭である。そこで、もえる、と云った方が、じゃア見てろといってタバコをすてたので、火の海になった。あわてて砂をかけたが及ばず、アレヨというまに建物にもえうつりドラムカンに引火して、バクハツを起し一挙に四方に火がまわったのだそうだ。
 火元の土建の何とか組は、私にも多少の縁がある。
 銀座のビルの一室をかりて、なにがしという綜合雑誌のようなものをだしていたのが、映画俳優のY氏であった。三年ぐらい前の話で、ひところの出版景気に、目先が早くて行動的な映画人で出版や雑誌発行をやった人も相当いたようだが、映画雑誌か娯楽雑誌が普通で、Y氏のように、綜合雑誌めいたものは例外だろう。Y氏の柄に合ったもののようにも見えなかったし、編輯上の識見があったとも思われないが、なんの困果でこんな雑誌をだしたのか私は今もって知らないが、徹底的にピント外れで、Y氏ならびに雑誌合せて、奇抜、ユニックな存在だったかも知れない。
 そのうち出版不況の時世となって、Y氏の雑誌も立ちゆかなくなり、旧知の作家O氏の救援を乞うたところ、O氏のはからいで、O氏や私を同人ということにして、新雑誌をだすことになった。
 そのとき、新雑誌のために二十万円ポンと投げだしたのが、O氏の知人で熱海大火の原因となった何とか組の何とか親分だ。もっとも、実際は親分ではなくて、親分の実弟だそうだが、私の聞きちがいか、紹介者が面倒がって端しょッて教えたせいか、私は熱海の大火まで、なんとか組の親分ズバリだと思いこんでいた。
 O氏の話では、新雑誌に賛成して好意的に二十万ポンと投げだしてくれた、という簡単明瞭な話であったが、なんとか組のなんとか氏の方は、新雑誌の社長のつもりであった。
 遠く東海道の某駅から、はるばる上京、Y氏の坐る社長の席へドッカとおさまり、社員一同を起立させて訓辞を与える。居場所を失ったY氏はウロウロしているし、社員は二人の社長の出現に呆ッ気にとられて仕事に手がつかない。
「キサマ、反抗するか!」
 と云って、それまで、実質的に編輯長のようなことをやっていた吉井という人物はひッぱたかれ、
「反抗する奴はでゝこい。若い
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