じゃないか。
 この先生にしたって、本当に勘定を払う気持があるなら、このまま家へ帰って、明朝返しにくるがいい。交番へ二百円かりにくることはありやしない。
 男はしかしそんな不合理は意に介していないらしい。小切手を交番の机の上へおいて、
「ね。小切手をお預けしますよ。明朝銀行が開きさえすりゃ現金になるんですから、現金にかえてお返ししますよ。これをカタに二百円たてかえて下さい」
「交番では、そういうことをするわけにいきません」
「なに、あなた、個人的に一時たてかえて下さいな。小切手をお預けしますから」
「お金はお貸しできませんが、勘定の話はつけてあげますから、店の者をつれてきて下さい」
「それが交番はイヤだてえんで、こまったな。いいじゃないですか。二百円かして下さいな。この小切手お預けしますよ。交番だから信用してお預けするんですよ」
「とにかく店の者をつれてらッしゃい。二百円は店の貸しにするように、話をつけてあげますよ」
「そうですか。困ったなア。来てくれりゃ、いいんですが、来ないんですよ」
「じゃア何か品物をカタにおいてお帰りになったらいかがです」
「そうですなア。じゃア、そうしましょう」
 男はようやくあきらめた。そして二幸の横の露路へ大変な慌ただしさで駈けこんでしまった。私は思わずふきだした。
 言うまでもなく、みんな嘘にきまっている。露路の奥には恐らくパンパンが待っていたに相違ない。パンパンを拾ったら、千円だという。ところが八百円しか持ち合せがない。しかしパンパンは負けてくれない。小切手を見せてもダメだ。そこでパンパンを待たせておいて交番へ二百円かりにきたわけだ。二百円かりて小切手を預ける。これぐらい安全な保管所はない。一石二鳥というものだ。すでに飲んだ酒の勘定なら、八百円の有り金まで持たせたまま、お供もつけずに外へ出すはずがないじゃないか。
 慌ただしく駈けこんだまま再び姿を見せなかったところをみると、八百円でパンパンを説得するのに成功したのだろう。
 路上でねているのを拾われてきた酔っ払いが交番の前にねせてある。小便は垂れ流し、上半身はヘドまみれ、つまり上下ともに汚物まみれで、これなら介抱窃盗も鼻をつまんで近よらないだろう。とても交番の中へ入れられないので、前の路上へねせておくわけだ。まったく昏酔状態で、いつ目覚めるとも分らない。
 ちょッとした交通事故が一件あったほかは、私たちがこの交番で接したのは、もっぱら酔っ払い旋風であった。応接いとまなしであった。
 田川博一が私の横で深刻そうに腕ぐみして呟いた。
「もう、新宿じゃア、のまん」
 悲愴な顔だが、禁酒宣言というものは三日の寿命しかないものだ。

          ★

 さて、いよいよ上野ジャングル探険記を語る順がまわってきた。四月十五日に探険して、それから一週間もすぎて、まだこの原稿にかかっているにはワケがある。
 私も上野ジャングルには茫然自失した。私がメンメンとわが不良の生涯を御披露に及んだのも、かかる不良なる人物すらも茫々然と自ら失う上野ジャングルを無言のうちに納得していただこうというコンタンだった。
 上野ジャングルに於て、私が目で見、耳できいた風物や言語音響を、いかに表現すべきかに迷ったのである。読者に不快、不潔感を与えずに表現しうるであろうか。そッくり書くと気の弱い読者は嘔吐感を催してねこんでしまうかも知れんが、その先に雑誌が発売禁止になってしまうよ。
 新宿交番が酔っ払い事件の応接にイトマなく、ただもうムヤミに忙しいのにくらべると、上野の杜の交番は四辺シンカンとしてシジマにみち、訪う人もなく、全然ノンビリしている。ノンビリせざるを得んのである。一足クラヤミの外へでて、ヤミに向って光をてらすと、百鬼夜行、ジャングル満山百鬼のウゴメキにみちている。処置がない。
 新宿は喧噪にみち、時に血まみれ事件が起っても、万人が酔えば自らも覚えのある世界であり、事件であって、我々自身の生活から距離のあるものではない。いつ我々が同じ事件にまきこまれるか知れないという心細さを感じるのである。
 上野は異国だ。我々が棲み生活する国から甚大の距離がある。何千里あるか知れないが、そこは完全な異国なのだ。
 天下の弥次馬をもって任じる私が、終戦以来一度も上野を訪れたことがないとはフシギだが、しかし私が見た上野はブラリとでかけて見聞できる上野ではない。ピストルをもった警官が案内してくれなければ、踏みこむことのできないジャングルなのである。
 私は上野を思うたびに、いつも思いだす人物があった。
 むかし、銀座裏に千代梅という飲み屋があった。ここにヤマさんという美少年の居候がいた。年は十八。左団次のお弟子の女形で、オヤマという言葉からヤマさんと愛称されていたが、水もしたたるような美
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