さ。じゃ、百円、あすここへ届けて下さい」
 と悍馬《かんば》のような鼻息で、女はひきあげた。
 ところが、それから二三十分すると、交番の四五間横の駅の玄関の柱に、女が何か大事そうに抱えて、交番の巡査にこれ見よがしにたたずんでいるのである。
 そのフロシキ包みは、ちょうどカバンぐらいの大きさだ。むろんカバンのはずはないが、いかにも疑ってくれという様子で、あまりにシツコく、また、憎々しいやり方である。
 巡査もいまいましがって、女を交番の奥へつれこみ、フロシキの中をしらべると、案にたがわずカバンではない。しかし一計を案出して、
「あのお客がだね。カバンを君の店で矢くした、君の店まではたしかにカバンを持って行ったと言ってる。君を疑るわけではないが、相手が酔っ払いでも、君の店で失くしたらしいと云う以上、一応君の店を調べなければならないから、案内してくれたまえ。君を疑ってるわけじゃないから、悪く思うなよ」
 と、このお巡りさん、年は若いが、なかなか言い方が巧妙である。
「ええ、ええ。そうでしょうとも。あの人がそう云う以上は、調べをうけるのが当然ですよ」
 と、女はまるでそれを待っていたようである。
 きいてる私は、なんとも不快だ。この女は全部筋書を立ててやってるのである。巡査は女に案内させて調べに行ったが、もとよりカバンのあるはずはなかった。
 巡査は男が女の店へカバンを忘れたと云ってると云ったが、これは巡査のとッさの方便で、男はすべてを記憶していないのだ。どこで飲んだかも覚えていない。あの女の店で酒をのんだ、と云ったりする。牛乳じゃないのか、ときくと、フシギそうに考えこんでしもう。そこでも酒をのみ、そこを出てからよそでも飲み、又戻ってきて牛乳をのんだのかも知れないし、しかし男の記憶は茫漠として全く失われているようである。
 客が前後不覚とみてカバンをまきあげ、それをカモフラージュするために、百円の無銭飲食だといって交番へつきだしたのかも知れないし、カバンを盗んだように疑われそうだから交番へつきだしたのかも知れない。状況だけでは、どうにも判断がつかないし、つけるわけにもいかない。
 しかし女の態度はいかにも憎たらしいし、作為的だ。そして男のカバンにこだわりすぎる。私が見ていた感じからいうと、女が犯人だとは云いきれないが、犯人の素質は充分にあることだけは確かである。世間にザラに見かける女ではない。
 こういう奇怪な人物が酒場を経営し、女給に命じてお客をタックルさせ、前後不覚の客に飲み物を押しつけて売るというのが、新宿の公然たる性格なのだから穏かではない。
 タックルしてくる客がお金があろうがなかろうが構わない。むしろお金のない方がいいらしいようでもある。金のカタにとれそうな外套や時計やカバンなど持ってればOKというわけだ。
 どの店なのか定かに記憶のない仁もあろうし、盗られたのか、忘れたのか、カタにおいてきたのか前後不覚の仁もあろうし、外套やカバンならお金を工面して取り返しに行くだろうが、時計などだとそれなりにしてしもう。ビール一本か二本の話で、バカげた話だけれども、酔っ払いというものは身からでた錆、災難とアキラメル精神の持主でもあるから、酔ってモウケた話などはないものだ。損するものと心得て、合の手に禁酒宣言などやってみるが、性こりもないものだ。
 介抱窃盗というのは明かに犯罪にきまっているが、前後不覚のお客をさそいこんで飲み物を押しつけて所持品衣類をカタにとりあげる。山賊とか安達《あだち》ヶ原の婆アかなんかが宿屋を内職にしてそんなことをやってるワケじゃなくて、帝都の裏玄関、レッキとした新宿の駅前マーケットの公然たる性格だから、東京にはジャングルがあるのである。
 しかしジャングルにはスリルがある。虎や狼こわくはない、というのはカンカン娘だけではなくて、酔っ払いは虎や狼にも会いたがる。安達ヶ原を承知の上で乗りこむのだから、身ぐるみはがれたってテメエが悪いんだ、なるほど、そうか。しかし、ねえ。そんなことを云うと、酔っ払いが悪くて、介抱窃盗が良いみたいじゃないか。どっちも悪いや。ア、そうか。
 酔っ払いというものは、介抱窃盗にやられても、天を恨まず、人を恨まず、自粛自戒して、三日間ぐらいずつ禁酒宣言などというものをやる。まことに深く逞しき内省自粛精神と、ひきつづいて忘却精神と、猛然たる勇気と、いろいろの美徳をかねそなえ、あげて税金に奉仕している人種である。
 わが身を考えると、よその酔っ払いを悪く云うわけにはいかないが、交番の中から眺めていると、酔っ払いというものは世話のやけるもんだね。
 交番の巡査を選んで、話しこみにくる酔っ払いがいる。交番の七八間うしろの道にはパンパンが林立しているし、あらゆる店には女給があぶれて話しかけてくれるのを待っ
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