。しかし、深夜には、たいがいバーでのんでいるから、バーのマダムや姐さん方は正義派で、お客をまもってくれるという良俗があり、新宿で本当にタカラれたこともなく、血の雨を降らしたこともない。新宿のヨタ公は、戦争がタケナワとなり、飲み屋がなくなるまで、残っていた。
しかし、盛り場ではないから一般には知られていないが、戦争前に私がズッと住んでいた蒲田はもっとひどかった。
中央線沿線は書生群のアパート地帯だが、当時の蒲田は安サラリーマンと銀座勤めの女給のアパート地帯で、アパートの女給は男をつれこみ、酒場や料理屋の女はまったくパンパンで、公然と許されてはいなかったが、今日の裏街といえどもこれ以上ではないのである。もっとも、銀座もひどかった。
当時はコップ酒屋がどこにもあったが、蒲田は安サラリーマンと労働者の街だから、夕方になるとコップ酒屋がドッとあふれる。大は四五十人つまるところから、小は四五人で満員の十銭スタンドに至るまで、お客は主として四十歳以上の、その日稼ぎの勤労者である。
蒲田のヨタモノはこの連中をタカるのだから悪質であった。
どんな風にタカルかというと、ヨボヨボの労務者が一人、又は二三人でのんでる横へ、ドッカと坐ってのみだす。やがて話しかけて(話しかけないことも多いが)
「このオジサンに一杯」
といって、一杯酒をとりよせて、まア飲みねえ、うけてくんな、と押しつける。
うけなければ、なぜうけないとインネンをつけるし、うければ、なぜ返さぬ、とインネンをつける。返せば、又一杯押しつけて、返させる。途中に帰ろうとすれば、なぜ帰るとインネンをつける。見込んだら、放さない。
洋服のサラリーマンよりも労務者にタカルことが多かったが、一見乞食のような服装の老いたる労務者や馬力人夫などが、最もタカラれ、結局その方が確実にイクラカになる理由があってのことだろう。
こんなタカリは毎晩一パイ飲み屋の何軒かで見られたものだが、店の主人も店員も客のためになんの処置もしてやらない。こういう時には男手のないバーなどの方がはるかにシッカリしているもので、マダムとか、ちょッと世なれた女給たちはヨタモノを退散させてくれるものだ。歴とした店構えの酒屋などの主人に限って、後難を怖れて、客のために何の処置もしてくれない。又、四五十人もいるお客は顔をそむけて素知らぬフリでのんでいる。うっかりそッち
前へ
次へ
全25ページ中8ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング