云うつもりではなかったのだが、ヘタな噺し家は、これだからこまる。高座で喋りながら逆上するようでは芸術家の資格がないと心得ていても、税務署に話がふれると、目がくらむのである。
★
終戦後、東京いたるところの駅前にマーケットができて、カストリをのませる。よってヘベレケに酔っ払う人種があつまり、パンパンとアロハのアンチャンがたむろする。
マーケットというところは元々売買取引するところだが、終戦後は、ここで女を買うことも間に合うし、顔を貸りられて身ぐるみまきあげる取引もあり、一つとして足りない取引がなく、みんなここで間に合うこととなった。
私は同じ地点で二度スリにやられたが、身ぐるみはがれたことはない。一度、当時はまだ銀座が殆ど復興していなかったが、私が焼跡へでて小便していると(マーケットに便所はないです)左右からサッと二人の怪漢が近より無言のままサッと胸のポケットに手をさしいれて引きぬいて、サッと消えた。私が用を終って振りむいた時には、人の姿はどこにもなかった。
手際の良さ、水ぎわ立った奴らだと感服したのだが、彼らは失敗したのである。私の小便の終らぬうちにと、彼らは急いでいるから、サッとポケットの物をひきぬくと改めもせず掻き消えたが、怪漢の一人はチリ紙をぬきとり、一人は鎌倉文庫手帖というものをぬきとったにすぎないのである。こういう教訓を書き加えるのは、芸術家として切ないのだが、手際がよすぎるということもいけないのである。
私がマーケットに於て被害をうけたのは、以上だけで、常連としては極めて微々たる被害だが、一人で飲むということが殆どなかったせいかも知れない。
どこのマーケットでもアンチャンあるところ身の安全は期しがたいが、特に新宿のマーケットはカストリ組の危険地帯随一と目されている。
しかし、新宿は戦争前にも、東京随一のアンチャン地帯であり、酔ッ払いの危険地帯であった。
私が中学生のころは浅草がひどかったが、震災後、親分連が自粛して、浅草の浄化運動というようなものを自発的に、又、警察と協力的にやりだしたので、私が東京の盛り場をノンダクレてまわる頃には、浅草は安全な飲み場の一つであった。
いつまでもアンチャン連が生息横行していた盛り場は、新宿が筆頭で、私もずいぶん、やられたものだ。当時、ここでひとりで深夜まで飲むことが多かったからだ
前へ
次へ
全25ページ中7ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング