を向いてもインネンをつけられる怖れがあるからで、事実ヨタモノはヨボヨボのジイサンなどをひどくイジメて、正直者がとりなしてくるのを待ち構えてもいるのである。
 私もここでは五人相手に大乱闘やったことがある。酔っていたから、ずいぶんブン殴られた。なんべんノビたか分らないが、ノビた数だけ突如として起き上ってとびかかって、いつまでも終りがないので、五人の親分というのが留めにきてくれた。翌日鬼瓦のように青黒くはれた顔をしているところへ、中原中也が遊びにきて、手を打って喜び、二三時間ぐらい(つまり彼の酒場へ通う時刻がくるまで)アレコレと腫れた顔の批評をして、帰っていったが、私は怒ることも笑うことも喋ることもできなかった。顔の筋をうごかすことができなかったのである。しかし一つの腫れた無言の顔を相手に、三時間もアレコレと意地の悪い批評の言葉がつづくところはアッパレ詩人というべきであろう。この時以来、私の鼻と口の間の筋が一本吊って、時々グアイがわるい。
 当時の蒲田のヨタモノは二種類あって、一つは並のヨタモノであるが、一つは大船へ引越した松竹撮影所が蒲田へ置きすてていった大部屋の残党だ。
 私のアパートの隣室が彼らの巣で、主として自分らの情婦をつかってツツモタセの相談をやってる。それが筒抜けにきこえる。いよいよ最後の仕上げに総勢出動のあわただしい音も、ガイセンの音も、祝盃の音も、みんなきこえて、最後に殊勲の女を情夫が愛撫する音まできこえ、首尾一貫、居ながらにして、現代劇を味っているようであった。そのツツモタセのたかってくる金が三円か五円ぐらいで、いちど十円の収穫があったとき、女が、十円札だわねえ、はじめてだわ、とシミジミ云っているのがきこえ、変に悲しい思いにさせられたものである。パンパン時代の今日の方が、むしろ女の肉体の価が高い。当時は蔭で身を売る女の数が今よりも多く、ハッキリ旗印しをあげることができなかったから、タダであったり、チップであったり、要するに値段がなかった。今のパンパンは収入の点では昔日の比ではないのである。
 新宿は蒲田ほど露骨ではなかったが、盛り場としては、戦前から最も柄の悪いところであった。
 しかし戦後の新宿はたしかにひどい。今は伊東に住んでいるから新宿へ行くこともないが、以前はよく行った。古い友人のやつてる「チトセ」という店は屋外劇場の方で、ここはアンチャン連
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