いと完成できない性質のものだ。
しかし、ここまでは序の段で、話の本筋はこの後にあるのである。
彼が捕えられて伊東署へ留置されると、芸者、料理屋、置屋などからゴッソリ差入れがあった。ところがこの先生、山とつまれた凄い御馳走には目もくれず、ハンストをやりだしたのである。警察も仕方なく栄養剤の注射をうって、持久戦に入った。
私はわが身の拙さを考えたのである。まず第一に、私が警察につかまっても、芸者や、料理屋や、待合や、置屋などからゴッソリ差入れがあるという見込みがない。第二に、ゴッソリ差入れがあったとしても、それには目もくれずハンストをやるなどというフルマイができるとは信ぜられないからであった。
ハンストなどというものは、甚しく毅然たる精神を必要とするものに相違ない。集団ハンストとか、銀座街頭のハンストなどは、下の下である。
孤独なるハンストに至っては、奥深くして光芒を放ち、神秘にして毅然、とうてい凡夫の手のとどく境地ではない。一つの高く孤独なる魂の運動を直線とする。俗物どもの低俗な社会契約が、この直線を切るのである。その切点は一瞬に火をふく。高い孤独な魂の苦悶が一瞬に鋭い慟哭と化したからである。それは流星が空気にふれて火をふきその形を失うのに似ている。――こう考えて、私はことごとく敬服した。
折から文藝春秋新社の鈴木貢が遊びにきたので、私は温泉荒しの敬服すべき武者ブリについて、説明した。
「バルザックの武者ブリは、当代の文士の生活にはその片鱗も見られないね。たまたま温泉荒しの先生の余裕綽々たる仕事ぶりに、豪華な制作意欲がうかがわれるだけだ。芸道地に墜ちたり矣」
鈴木貢は社へ戻って、温泉荒しの武者ブリを一同に吹聴した。
膝をたたいたのが、池島信平である。
「巷談の五は、それでいこうよ。グッと趣きを変えてね」
ただちに私のところへ使者がきた。池島信平という居士の房々と漆黒な頭髪の奥には、ここにも閃光を放つ切点があるらしいので、私はニヤニヤせざるを得ない。
「なるほどね。温泉風俗を通して世相の縮図をさぐり、湯泉荒しの武者ブリを通して戦後風俗の一断面をあばく、とね。これも閃光を放つ切点か」
私は使者に言った。
「どうも、巷談の原料になるかどうか、新聞だけじゃ分らないよ。いったい、なんのためにハンストやってるのだろう? いろいろ、きいてみないとね」
「それは、もう、手筈がととのっています」
伊東に住んでいる車谷弘が総指揮に当って、カナリヤ書店と「新丁」という鰻屋の主人を参謀に、警察や芸者や料理屋の主人や旅館の番頭女中などにワタリをつけて、一席でも二席でも設けて話をききだす手筈がととのっているというのだ。
私は、たしかに、興味があった。なぜ、ハンストをやっているのだろう? どうして、そんなに差入れがあるのだろう? と。
★
最も卑俗なところを忘れてはいけないな、と私は自戒した。とかくそれを忘れがちだからである。窓の土台を押してみるのを忘れて推理しているたぐいだ。
そこで私は考えた。ハンストというのはマユツバモノだ。先生、豪遊がすぎて、腹をこわしているのじゃないか、と。
警察の人にきいてみると、私の考えた通りで、
「あれには騙されましたよ。ナニ、連日の飲みすぎで、下痢してたんですな。相当に胃がただれているようですよ」
しかし、これも真相ではなかった。その数日後も、彼はまだハンストをやっていた。しかし、流動物はとる。そして、日に日に痩せている。すでに十七日目であった。
「ええ、まだハンストをやっていますよ」
と、別の警察の人が言った。
「そして、犯行についても、全然喋りませんな。上衣の襟クビを捉えられた地下鉄寮と、もう一軒物的証拠を残してきた旅館の犯行のほかは否認して、口をつぐんでいます」
なるほど、否認するためのハンストかと私は思ったが、これも真相ではなかった。真相というものは、まことに卑俗なものである。
「あれはですな。ハンストをやって流動物だけ摂っていると、衰弱して、保釈ということになります。前科何犯という連中、特に裕福な連中、二号三号をかこっているという連中がこれをやります。常習の手ですよ。あの先生も、二号というほどのものはないでしょうが、金は持っていますからな。保釈になって、それをモトデに、見残した夢を見ようというわけです」
狸御殿の殿様などは、この手の名人だということである。保釈で出ては新しい仕事をしている。
温泉荒しの泥棒といっても、たしかに、彼の場合は、完全な智能犯だ。狸御殿の殿様よりも、チミツなところがあるかも知れない。彼の編みだした温泉荒しの方法は、勝負が詐欺よりも手ッとり早いし、ある意味では、安全率が高い。なぜなら、誰にも姿を見られていないからである。見た人はあ
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