るばかりであり、好んで八百長をやる筈はない。
しかし、八百長はたしかにある。もしも、あの打ちつづく番狂わせが、八百長でなく、競輪自体の性格であるとするならば、競輪というものは三千円や五千円ぐらいのモトデで出かけたところで損をするばかりで、三万円をフトコロに穴を狙うのが一番確実なレースだということになる。そして、それをやりうる金持だけが、ともかくモウカル仕組であり、貧乏人はまったく見込みがないというレースの性格でもあるわけだ。
又、一日に二レースに出場する選手が、一レースを投げ、他の一レースに全力を集中するということが許されるなら、これも一種の八百長とみてよろしく、主催者は、プログラムの製作を変える必要があろう。
しかし、八百長の元は、場内整理にボスが当り、選手派遣についてもボスに渡りをつける必要があるなどゝいう仕組の中にあるのだろうと思う。しかし、現在、競輪に人気が集中しているのは、その八百長的性格のせいで、大番狂わせ、大穴のでるところに人気があつまっているのだから、八百長の性格が少くなると、競輪熱も衰え、片隅の存在になるのじゃないかと思われる。
賭博というものは、それで生計を
前へ
次へ
全25ページ中23ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング