と、相当の負傷をする。
しかし、私の見た落車は、スピードの頂点に於て行われたものではなく、前の車をカーブでぬこうとしてスリバチの頂点へ登りつめ、登りつめたことによって、速力が停止した瞬間に横にころがっていた。これは最も危くないころがり方である。
観衆は落車は危険だと思い、落車すると、すぐタンカがきて、運んで行くから、誰しも落車を偶然の事故だと思って怪しまないが、カーブに於て、スリバチの頂上に登りつめると、自然に停止する瞬間があり、その瞬間にころがると、停止してころがったのと全く同じ状態にすぎないことを見のがしているのである。同時に又、スリバチ型の頂上へのぼりつめて、自然に速力が停止すると、もしペダルから足が放せるなら、当然片足をヒョイと降して、支えて止まる状態でもあり、それが出来ないから、ころがるだけの、きわめてスムースに、かつ、やわらかく、ころがりうる状態であることを知る必要もあろう。
落車は最終日に於て行われたが、これも亦、何事かを暗示しているように私は思った。しかし、観衆は、落車には同情的であり、落車にもいろいろの場合があることを度外視しているから、ここにも盲点がありうるのである。
ともかく、競輪というものは、フォーカスで本命ばかり買っても、全然ダメ。復で本命を買っていても、二度以上は外れるから、やっばりダメ。マトモに買っては、目下のところ絶対にもうからない。
現在のところでは、三万円をフトコロに、穴狙い屋の少い競輪場へ出かけて、大穴専門にやるのが、むしろ最も確実なのである。なぜなら、半数ぐらい番狂わせが出るから。そして、この番狂わせが八百長かどうかは分らないが、八百長でも有りうることは、私が今まで述べたところで、ほぼ判じうるだろうと思う。
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しかし、私が話を交した三人の選手のヒタムキな向上心や、彼らによって物語られた選手の私生活について考察しても、選手自体は概ね勝負一途の、競輪に青春を賭けた単純で名誉心にもえたった連中で、選手の腐敗ということは、きわめて一部分の現象でしかないようである。常に新人が登場して、それが勝敗以外に余念のない十七、十八、十九ぐらいの若者ぞろいであるから、その競争心は熱烈であり、練習も亦猛烈だ。彼らの朝晩の練習は、真剣そのものである。だから、追われる方も油断ができず、酒色に身をもちくずせば早晩破滅す
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