の三周目に、強い連中が全馬力で追走しても、追いつけないだけ離している。そしてトップのまま逃げこんで、優勝してしもう。これを逃げきる、と称して、観衆は弱い選手の巧妙な戦法の一つだと思いこんでいるのである。
 私は、昔、陸上競技の選手であったが、しかし、陸上競技の選手でなくても、分ることだろう。本当に実力がなければ、逃げきる、ことなどが出来る筈はないのである。名もない選手が、それまで実力を隠していて、突然実力いっぱい発揮して、逃げきって、勝つ。これなら、分る。
 しかし、それまで弱い選手、そして、その後も弱い選手が、一度だけ逃げきって勝つなどゝいうことは有りうべきことではないのである。
 いつか神宮競技場で行われた日独競技の八百米で、それまでビリだったドイツ選手(たしかベルツァーだったと思うが)最後の二百米で、グイ/\と忽ち二着を五十米もひきはなして勝ってしまったが、実力の差はそういうもので、強い選手は必ず追いぬくし、追いぬかれない選手は、それだけの実力があるにきまったものだ。弱い選手がトップをきって、逃げきることは、絶対に不可能だ。一分十五秒で千米を走る強い選手は自分のペースで走っており、最終回までに全力がつくされて一分十五秒になるように配分されており、一方、弱い選手が、一分二十五秒でしか千米を走ることができないのに、逃げきることによって、一分二十秒に走りうる、という奇蹟は、有り得ないのである。一分二十五秒でしか走れない選手は、逃げきり戦法でも、レコードを短縮することはできない。レコードを短縮し得たとすれば、それだけの実力があり、それを隠していただけのことだ。
 だから、強い選手は逃げきることができる。しかし、実力のない選手が逃げきることは有り得ないのである。
 私の見たレースでは、あらゆる競輪新聞や予想屋が、全然問題にしていなかった選手が逃げきって勝った。
 観衆は、アー、逃げきりやがって、畜生メ! とガッカリしていたが、もし、この選手がこのレース一度だけで、その後のレースに弱いとすれば、これもハッキリ八百長にきまっている。
 私は、又、本命と対抗が二人まで落車して、タンカで運ばれて去るのも見た。
 競輪はペダルに靴をバンドでしめつけて外れない仕組になっているので、落車すると自転車もろとも、一体にころがり、コンクリートのスリバチ型の傾斜をころがるから、本当に落車する
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