で字下げ終わり]
なども相当の人気がある。6に目をつけている人もかなりいるが、3の赤二郎は大穴狙いの商売人が買っているだけだ。3と同じように全然人の注意をひかないのは個人番号七の黒五郎だが、これはフォーカスとしては小林と組になっているから、一層問題にならない。
ところが一大混戦となり、小林は包まれて出られず、田川がトップをきっていたが、ゴール前の混戦に、アッというまに横からとびだした黒五郎が優勝してしまった。
「アッ。七番だ!」
しかし、次の瞬間に、
「ワッ。五―二。当った。当った」
と、どよめきが起る。本命の小林は負けたけれども、フォーカスで小林と組になっていた黒五郎が優勝したから、本命の五―二は動かなかったわけ。観衆の大多数は五―二を買っているから、当った、当った、と大よろこびで、本命の小林が負け、名もない黒五郎が勝ったことが、全然問題にならない。
競輪の観衆の大部分がフォーカスを専門に買い、単複はフォーカスの十分の一ぐらいしか売れないのが普通だから、フォーカスの本命がでれば、大多数は満足で、文句のでる余地はない。
人々は全然フォーカスに気をとられて忘れているが、黒五郎の優勝は、単複に於ては、大穴となっているのである。大多数の人々はフォーカスで安い配当を貰って満足しており、巧妙に盲点をつかれていることに気付かないのである。
恐らく、小林がフォーカス番号の三番におり、誰とも組になっていない場合に、田川も小林も敗れて、名もない黒五郎が勝ったなら、大モンチャクとなったであろう。
包む、という戦法が、すでに、おかしい。包むには、すくなくとも三人ぐらい共謀して外側をさえぎる必要があるのである。ところが競輪は個人競技だ。包むには共同謀議が必要であって、すでに八百長を暗示している事実なのだが、包む、という策戦が、八百長としてでなく、競走の当然な策戦の一つとして観衆に認められているところにも、観衆のアマサがあり、盲点があるのである。
もう一つ、逃げきる、という戦法がある。これは千米レースに行われることで、名もない選手がグングンでる。トップ賞といって、各周ごとに先登をきった者が千円もらえるので、弱い選手が始めグングンとばして千円狙うのは、いつものことだ。ハハア、先生、トップ賞を稼いでいるな、とみな気にとめていないが、二周目に速力が落ちるどころか益々差をつけ、最後
前へ
次へ
全13ページ中9ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング