るばかりであり、好んで八百長をやる筈はない。
しかし、八百長はたしかにある。もしも、あの打ちつづく番狂わせが、八百長でなく、競輪自体の性格であるとするならば、競輪というものは三千円や五千円ぐらいのモトデで出かけたところで損をするばかりで、三万円をフトコロに穴を狙うのが一番確実なレースだということになる。そして、それをやりうる金持だけが、ともかくモウカル仕組であり、貧乏人はまったく見込みがないというレースの性格でもあるわけだ。
又、一日に二レースに出場する選手が、一レースを投げ、他の一レースに全力を集中するということが許されるなら、これも一種の八百長とみてよろしく、主催者は、プログラムの製作を変える必要があろう。
しかし、八百長の元は、場内整理にボスが当り、選手派遣についてもボスに渡りをつける必要があるなどゝいう仕組の中にあるのだろうと思う。しかし、現在、競輪に人気が集中しているのは、その八百長的性格のせいで、大番狂わせ、大穴のでるところに人気があつまっているのだから、八百長の性格が少くなると、競輪熱も衰え、片隅の存在になるのじゃないかと思われる。
賭博というものは、それで生計をたてる性質のものではなく、遊びであり、その限りに於て、片隅に存在を許されることは、不当ではない。特に日本の国情として、世界的に観光国家として発展の必要があると、片隅の存在としての賭博は、片隅ながらも、国家的な配慮に於て行われる必要はあるだろう。
そういう場合に最大の障碍となるのは、その賭博によって生計を立てる人種が介在することで、つまり、ボスというものの存在を許すかぎり、賭博は民衆の「遊び」として育てることはできないのである。
賭博を単純に遊びとか保養というものに解する生活が確立すれば、もとより賭博の害もなく、競輪場の紛擾もなくなるだろう。モナコがなくなっても、自殺者の数はへらない。
底本:「坂口安吾全集 08」筑摩書房
1998(平成10)年9月20日初版第1刷発行
底本の親本:「文藝春秋 第二八巻第四号」
1950(昭和25)年4月1日発行
初出:「文藝春秋 第二八巻第四号」
1950(昭和25)年4月1日発行
入力:tatsuki
校正:宮元淳一
2006年1月10日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(htt
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