ぐらしてくれたので、伊東へきて、大決意をすることができた。
 私の中毒にくらべると、身体がいいせいもあって田中英光は、決して、それほど、ひどい衰弱をしてはいない。彼は一人で、旅行もし、死ぬ日まで東京せましととび歩き、のみ廻っていたほどだ。
 私ときては、歩行まったく困難、最後には喋ることもできなくなった。
 田中英光のように、秋風の身にしむ季節に、東北の鳴子温泉などゝいうところへ、八ツぐらいの子供をつれて、一人ションボリ中毒を治し、原稿を書くべく苦心悪闘していたのでは、病気は益々悪化し、死にたくなるのは当りまえだ。孤独にさせておけば、たいがいの中毒病者は自殺してしまうにきまっている。
 しかし私のように、意志によって中毒をネジふせて退治するというのは、悪どく、俗悪きわまる成金趣味のようなもので、素直に負けて死んでしまった太宰や田中は、弱く、愛すべき人間というべきかも知れない。
 田中の場合がそうであるが、催眠薬はねむるためだと思うとそうでなく、酩酊のためだ。そして、このことは、案外一般には気付かれずに、しかし多くの人々が、その酩酊状態を愛することによって、催眠薬中毒となっているようである。
 私自身も、自分では眠るためだと思っていたが、いつからか、その酩酊状態を愛するようになっていた。
 催眠薬は、一般に、すべて酩酊状態に似た感覚から眠りに誘うが、アドルムは特にひどい。先ず目がまわる。目をひらいて天井を見れば天井がぐるぐるまわっている。
 私は中学生のころ、はじめて先輩に酒をのませられて、いきなり部屋がグル/\廻りだしたのでビックリしたが、そんなことは酒の場合は二度とはない。ところが、アドルムは、常にそうだ。
 私は若いころスポーツで鍛えたせいか、足腰がシッカリしていて、酒をのんでも、千鳥足ということが殆どない。ところが、アドルムは、テキメンに千鳥足になる。
 頭の中の感覚が、酒の酩酊と同じようにモーローとカスンでくるのであるが、酒より重くネットリと、又、ドロンと澱みのようなものができて、酒の酩酊よりもコンゼンたる経過を経験する。睡眠に至るこの酩酊の経過が病みつきとなり、それを求めるために次第に量をふやして、やがて、中毒ということになるらしい。私はそうだった。
 いったん中毒してしまうと、非常に好色になり、女がやたらに綺麗に見えて、シマツにおえなくなる。これは中毒に
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