なってから起ることで、単にアドルムをのんでるうちは、こうはならない。
私は単に睡るためにアドルムを用い、常に眠りを急いでその為のみに量をふやす始末であったから、気がつかなかったが、アドルムをのむと愛撫の時間が延びるという。これは田中が書いている。田中は睡るためでなく、酔うためにのんだアドルムだから、そういう経験に気付いたのであろうが、あの薬の酩酊状態はアルコールと同じで、アルコールよりも強烈なのだから、そういう事実が起るのは当然かも知れない。
ある若い作家の小説にも、たくましい情人に太刀打ちするのにアドルム一錠ずつのむというのがあったが、してみると、その効能は早くから発見されて、ひろく愛用されているのかも知れない。
先日、田中英光の小説を読んで感これを久うした含宙軒師匠がニヤリニヤリと、フウム、あの薬をのむと、勃起しますかなア、とお訊きになったが、勃起はどうでしょうか。私は中毒するまで気がつかなかった。完全な中毒に至ると、一日中、勃起します。しかし、もうその時は、歩行に困難を覚え、人の肩につかまって便所へ行くようなひどい中毒になってからで、これでは差引勘定が合わない。人の肩につかまって歩きながら、アレだけは常に勃起しているというのは、怪談ですよ。
病院へいって治せるなら、すぐにも、入院したいと思う。又、事実、中毒というものは持続睡眠療法できわめてカンタンに治ってしまう。鉄格子の部屋へいれて、ほッたらかしておいても、自然に治る。けれども、カンタンに治してもらえるというのは、カンタンに再び中毒することゝ同じことで、眠りたいから薬をのむ、中毒したから入院する、まことに二つながら恣意的で、こうワガママでは、どこまで行っても、同じくりかえしにすぎない。
この恣意的なところが一番よく似ているのは宗教である。中毒に多少とも意志的なところがあるとすれば、眠りたいから催眠薬をのみたい、苦しいから精神病院へ入院したい、というところだけであるが、人が宗教を求める動機も同じことだ。どんな深遠らしい理窟をこねても、根をたゞせば同じことで、意志力を失った人間の敗北の姿であることには変りはない。
教祖はみんなインチキかというに、そうでもなく、自分の借金の言い訳はむつかしいが、人の借金の言い訳はやり易いと同じような意味に於て、教祖の存在理由というものはハッキリしているのである。
教祖
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