じめ太平洋岸の人々にとってウラジオの機雷という物騒な漂流児が話題にのぼったのはようやく今春来のことである。
けれども裏日本の海辺がウラジオからの漂流機雷に悩みはじめたのは太平洋戦争の起る前からのことだ。私が昭和十七年の夏に新潟市へ行ったとき、博物館(であったと思う。あるいは別の場所だったかも知れない)でドラムカンの化け物のようなこの機雷を見た。それはその年かその前年ごろ新潟の浜へ漂着し工兵が処理したものであったが、すでに当時から裏日本の諸方の浜ではこの機雷に悩んでいた。もっともそのタネは日本がまいたようなもので、支那で戦争を起したりノモンハン事変などもあったから、ロシヤはウラジオ港外に機雷網をしいて用心しはじめたのであろう。それが冬期の激浪にもまれ解氷時に至ってロビンソン・クルーソーの行動を起すもののようである。
この日本海の漂流児は能登半島から福井方面へ南下するのもあるが、富山方面へ南下して佐渡と新潟間より北上を起して途中の浜辺でバクハツせずについに津軽海峡にまで至り、そこから更に太平洋にまで突入して行方をくらますという颱風の半分ぐらいも息の長いのが存在しているのである。そして、
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