があったという境内の山上で、そこが古くから墓所と伝えられていたそうだ。勝楽寺の若光墓は供養塔か、他のコマ王か、又はほかの何かであろう。
その頃の城とか御殿というものは山上山中になくて、川の流れにちかい平地の中央か、せいぜい小高い丘の上ぐらい。飛鳥でも藤原京でもそうだし、蘇我入鹿のアマカシの丘の宮城と云ったって、平地とほぼ変りのないちょッとした高台にすぎない。
屍体を埋めた城外が、いま獅子の舞う山上だということも、当時の例からは一番普通と見てよろしいようだ。
その山上の広場はせいぜい三百坪ぐらい、ホコラの前の地面をのぞいて概ね熊笹が繁っている。
獅子やササラッ子などに扮した青年や少年たちは山上で一舞いして神霊をなぐさめ、しばらく扮装をといて休憩して、これより山下の神社へ降りる。さて再び扮装をつける前に熊笹の中へわけこんでノンビリと立小便の老人、青年、少年たち。熊笹の下に祖神のねむることを知るや知らずや。しかし、ここの神霊は決して怒りそうもない。実にすべてはノンビリとしている。ここの山上まで見物に登っているのは、私たちのほかに女学生が三四名いただけであった。
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