寺の創立者の人名にヒノクマとあるところから、百済の聖明王が欽明天皇に伝えた仏教と別系統に、帰化人の誰かが私人的に将来し崇拝していたのが起りだろうとも考えられているようだ。それも有りうることである。
コマ郡の成立とても霊亀二年とあるが、それは他の七ヶ国から一千七百九十九名をここへ集め移した時の話で、ここにそれ以前からコマ人の誰かが住んでいたかも知れない。
だいたい七ヶ国から二千名ちかいコマ人を一ヶ所に集め移すからには、その土地に彼らとつながる何かの縁があるからだろう。コマ郡と称したのはその後のことだが、古くからコマ人に縁故の地であり、すでにコマ人が住んでいたと見ても突飛な考えではなかろう。
しかし、それがどのような縁故の地であり誰が古くから住んでいたかということは、これも全然分らない。
コマ家の系図の破りとられた部分に何が書かれていたか。今日これを知り得ないのが、まことに残念である。系図の残存の部分の記載が信用しうるもののようであるから、破り棄てられた部分が甚だ惜しいのである。
コマ神社の起源については系図の語る通りのようだ。屍体を城外に埋めたこと。そして埋めた場所はむかし神殿
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