コマ人一千七百九十九人の方が珍しい存在と云うべきであろう。彼らが土地を移して一ヶ所にまとめられた意味はそういうところにあるのかも知れない。
この移住は高句麗が新羅に亡ぼされてのち約五十年後に起った。そしてその後、
「天平宝字二年八月に帰化の新羅僧三十二人と尼二名と男十九人女二十一人を武蔵国に移して新羅郡をおいた」
という記事もある。
「天平宝字五年春正月、美濃と武蔵二ヶ国の少年二十人ずつに新羅語を習わせた」
という記事もある。武蔵の国の新羅郡というのは明治二十九年に北足立郡に編入された新座郡のことだそうだ。
高句麗と百済と新羅の勢力争いは、日本の中央政権の勢力争いにも関係があったろうと思われる。なぜなら、日本諸国の豪族は概ね朝鮮経由の人たちであったと目すべき根拠が多く、日本諸国の古墳の出土品等からそう考えられるのであるが、古墳の分布は全国的であり、それらに横のツナガリがあったであろう。そしてコマ系、クダラ系、シラギ系その他何系というように、日本に於ても政争があってフシギではない。むしろ、長らくかかる政争があって、やがて次第に統一的な中央政権の確立を見たものと思われる。
時の政府によって特に朝鮮の一国と親しんだものや、朝鮮の戦争に日本から援軍を送った政府もあり、そこに民族的なツナガリがあったのかも知れない。
コマ(コクリをさす。以下も同じ)の文物を最も多くとりいれたのは聖徳太子のころであるが、太子はさらに支那の文化を直接とりいれることに志をおいた。日本統一の機運とは、まさにこれであったと私は思う。
何系何系の国内的の政争が各自の祖族やその文化にたよる限り国内の統一はのぞめない。これを統一する最短距離は、そのいずれの系統の氏族に対しても文化的に母胎をなす最大強国の大文化にたよるにまさるものはない。太子の系統はコマの滅亡と共にあるいは亡びたかも知れないが、ともかく日本統一の機運を生みだした日本最初のまた最大の大政治家は聖徳太子であったと云えよう。支那の文物を直接とりいれる機運のたかまると共に日本の中央政府は次第に本格的に確立して、奈良平安朝のころに雑多の系統の民族を日本人として統一するに至った。こうして民族的な雑多な系統は消滅したが、それは別の形で残ったものもある。それが何々ミコトや何々天皇、何々親王の子孫という系譜である。源氏や平家の系譜の背景にも相当の古
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