それに比して山岳地帯の盆地の方が居住地としての安全率が高かったのであろう。そこには先住民たる貝塚人種の居住もなく、全てに於て山間に居住地を定める方が他部落とのマサツや獣虫天災の被害が少なかったのであろう。またコマ、クダラが亡びて後は特に密入国的な隠遁移住が多かったであろう。
 つまり天皇家の祖神の最初の定着地点たるタカマガ原が日本のどこに当るか。それを考える前に、すでにそれ以前に日本の各地に多くの扶余族だの新羅人だのの移住があったということ、及び当時はまだ日本という国の確立がなかったから彼らは日本人でもなければ扶余人でもなく、恐らく単に族長に統率された部落民として各地にテンデンバラバラに生活しておったことを考えておく必要がある。
 つまり今日に於てもウラジオストックからの漂流機雷が津軽海峡のレンラク船をおびやかす如くに、当時に於ても遠く北鮮からの小舟すらも少からぬ高句麗の人々をのせて越や出羽の北辺にまで彼らを運び随所に安住の部落を営ませていたであろうということを念頭にとどめておくべきであろう。
 むろん馬関海峡から瀬戸内海にはいって、そこここの島々や九州四国本州に土着したのも更に多かったであろうし、一部は長崎から鹿児島宮崎と九州を一巡して土着の地を探し、または四国を一巡したり、紀伊半島を廻ったり、中部日本へ上陸したり、更に遠く伊豆七島や関東、奥州の北辺にまで安住の地をもとめた氏族もあったであろう。そして彼らは原住民にない文化を持っていたので、まもなく近隣の支配的地位につく場合が少くなかったと思われる。
 霊亀二年五月に今の高麗《コマ》村(以下コマ村と書く)がひらかれたという続日本紀の記事に於ても、決してその年に渡来したコマ人をそこに住ませたのではなく、
「駿河と甲斐と相模と上総と下総と常陸と下野の七ヶ国のコマ人一千七百九十九人を武蔵の国にうつしてコマ郡をおいた」
 とある通り、すでに各地に土着しておったコマ人を一ヶ所にまとめたにすぎない。
 これがコマ人の総数でなかったことは確かであろう。恐らくそれ以前に日本各地に土着したコマ人たちは、単に部落民として中央政府の支配下に合流して自らをコマ人、クダラ人、シラギ人などと云うことなく新天地の統治者に服従して事もなく生活していたに相違なく、これに反して、すでに日本の諸地に土着しつつも敢てコマ人と称して異を立てておった七ヶ国の
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