寺の創立者の人名にヒノクマとあるところから、百済の聖明王が欽明天皇に伝えた仏教と別系統に、帰化人の誰かが私人的に将来し崇拝していたのが起りだろうとも考えられているようだ。それも有りうることである。
 コマ郡の成立とても霊亀二年とあるが、それは他の七ヶ国から一千七百九十九名をここへ集め移した時の話で、ここにそれ以前からコマ人の誰かが住んでいたかも知れない。
 だいたい七ヶ国から二千名ちかいコマ人を一ヶ所に集め移すからには、その土地に彼らとつながる何かの縁があるからだろう。コマ郡と称したのはその後のことだが、古くからコマ人に縁故の地であり、すでにコマ人が住んでいたと見ても突飛な考えではなかろう。
 しかし、それがどのような縁故の地であり誰が古くから住んでいたかということは、これも全然分らない。
 コマ家の系図の破りとられた部分に何が書かれていたか。今日これを知り得ないのが、まことに残念である。系図の残存の部分の記載が信用しうるもののようであるから、破り棄てられた部分が甚だ惜しいのである。
 コマ神社の起源については系図の語る通りのようだ。屍体を城外に埋めたこと。そして埋めた場所はむかし神殿があったという境内の山上で、そこが古くから墓所と伝えられていたそうだ。勝楽寺の若光墓は供養塔か、他のコマ王か、又はほかの何かであろう。
 その頃の城とか御殿というものは山上山中になくて、川の流れにちかい平地の中央か、せいぜい小高い丘の上ぐらい。飛鳥でも藤原京でもそうだし、蘇我入鹿のアマカシの丘の宮城と云ったって、平地とほぼ変りのないちょッとした高台にすぎない。
 屍体を埋めた城外が、いま獅子の舞う山上だということも、当時の例からは一番普通と見てよろしいようだ。
 その山上の広場はせいぜい三百坪ぐらい、ホコラの前の地面をのぞいて概ね熊笹が繁っている。
 獅子やササラッ子などに扮した青年や少年たちは山上で一舞いして神霊をなぐさめ、しばらく扮装をといて休憩して、これより山下の神社へ降りる。さて再び扮装をつける前に熊笹の中へわけこんでノンビリと立小便の老人、青年、少年たち。熊笹の下に祖神のねむることを知るや知らずや。しかし、ここの神霊は決して怒りそうもない。実にすべてはノンビリとしている。ここの山上まで見物に登っているのは、私たちのほかに女学生が三四名いただけであった。

          
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