がとれている。その響きが一間か一間半ぐらいで、急にとぎれて吸われて、なくなるような、厚い布地をかぶせて太鼓をうってるような鈍い音。
 普通の獅子舞いは、獅子と太鼓は別人がやる。獅子は面を頭上にかざして口をパクパクやるために両手を使うから、太鼓をうつことはできないのである。
 この獅子は頭上に獅子をかぶり、顔の前面には長いベールを垂らしている。グッとそッくりかえったり、前かがみになってタテガミをふったりしながら、片足を踏みあげて、太鼓をうつ。獅子は腹部に太鼓をぶらさげ、自分でそれを舞いながら打つ。
 赤青黒の三人の獅子。その足の捌きや、身の振り方はやや日本化しているが、それは彼らが自然に日本人に同化するうちに巧まずして多少の影響をうけただけのことで、その本来の骨法はまったく日本の現実に何の拘りもないことが分る。支那風でもあるが、蒙古風と云うべきかも知れないな。
 舞いは二匹のオス獅子が一匹のメス獅子を取りッこするのを現しているのだそうだが、それにふさわしい勇ましさも陽気さもなく、ただ物悲しく単調な笛であり太鼓であった。
「祖神の霊をなぐさめるとでもいうのかなア。ところが陽気なところが全然ないからなア。荒々しく悲しく死んだ切ない運命の神様を泣きながら慰めているのかなア」
 私がこう呟くと、
「まったく、そうとしか考えられない」
 檀君も腕ぐみをして考えこんでいるような答えを返した。
 私がコマ村のことで第一番に皆さんにお知らせしたいのは、この笛の音なのだが、音を雑誌に出せないのが痛恨事です。ただ、
「もういいかアーい」
「まアだだよーオ」
 という隠れんぼの呼び声に他のいかなる音よりも似ていることは確かです。
 ところが、この獅子舞はメスの獅子をオスの二匹が取りッこするというけれども、実は隠れたメスを探しッこするのである。つまりやっぱり隠れんぼである。
「もういいかアーい」
「まアだだよーオ」
 という隠れんぼの呼び声は今や全国的であるけれども、その発祥は武蔵野で、武蔵野界隈にだけ古くから伝わっていたにすぎないもののようだ。この獅子舞、笛の音と、ツナガリがあるのではないでしょうか。私はひどく考えこんでしまいましたよ。
 まもなく中野君が若い神官をともなってきた。宮司が不在でその息子さんであった。私たちは若い神官にみちびかれて社務所へ招ぜられた。系図を見たのはこの日である
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