安吾の新日本地理
秋田犬訪問記――秋田の巻――
坂口安吾

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)美髯《びぜん》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)到着|匆々《そうそう》

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ウジャ/\
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 私は犬が好きだ。何匹いても邪魔にはならないが、小犬一匹の遊び場にも足りないぐらい家も庭もせまいから、欲しい犬も思うように飼えないのである。目下生後五ヶ月のコリーと一歳三ヶ月ぐらいの中型の日本犬がいるだけだ。
 コリーは利巧な犬である。牧童の代りに羊の群を誘導して、群をはなれる羊があればつれもどり、また外敵から守って、人間以上の働きをする犬だ。シェパードには専門の訓練師が必要だが、コリーの方は、番犬に必要程度の訓練なら主人でも間に合う。時間の観念が正確だし、自分の欲望を抑えて主人の言いつけに服する力があるし、血気にはやるということがない。よその犬には親しみも持たないし敵意も持たない。その代りには人間が大好きで、誰とでも仲よしである。誰にでもペロペロなめて親愛の情をヒレキするが、よその犬には振り向くこともない。
 去年死んだコリーは牧場で相当期間育ってきたらしく、牛や馬を見ると目つきが変るほど喜んで、親愛の情をヒレキしに走って行ったが、今度のコリーは乳をはなれた時から私のウチで育ったから、牛や羊や馬には愛情を感じる習慣がない。しかし弱者を守ったり誘導する本能だけは生れながらにいちじるしいから、子守には人間の子守以上の確実性が考えられるし、女だけの家族にはこの上もない保護者であろう。
 もっとも、コリーは容姿が雄大で美しいから、御婦人がこれを連れて歩くと御婦人の方が見おとりがする。ボルゾイの美しさはコリー以上だが、コリーには雄大さがある。日本婦人は体格的にすでに甚しく劣勢で、コリーを連れて歩いて見劣りしないとなれば、これを美人コンクールの最終予選にパスしたものと認めてよろしく、ミス・ニッポンの有力候補であろう。五尺五六寸以上の外国婦人の体格がないと、どうもツリアイがとれないようだ。ウチの女房には、これが嘆きのタネである。
 外国種の犬はたいがい利巧で、訓練もきくし、主人をはなれて、一本立ちの行動ができるものだ。そのうちでもコリーは特に利巧な犬であるから、これと小型や中型の日本犬を一しょに飼うと、日本犬の頭の悪さが身にしみて情なくなるのである。
 日本犬は主人と合せてようやく一匹ぶんの働きができるのである。家族以外の者には決してなれない。しょっちゅう遊びにくる友人も毎曰くる御用キキも、犬のお医者もダメである。鶏屋のオヤジサンは犬に吠えられるのが大キライだそうで、ウチの犬が店の前を通ると肉やタマゴをサービスしてゴキゲンをとりむすんでいるそうだが、全然キキメがない。無用な吠え方をしないように、すでに七八ヶ月も家の者が気を配っているが、全くキキワケがない。
 ただベタベタと、イヤらしいほど主人に忠義である。ワケも分らずに、ただベタベタと忠義というのは全く情ないもので、サムライ日本のバカらしさ、頭の悪さ、そのままである。自分の家の近所と、主人と一しょの時だけは無性に勇み立つ。むやみによその犬とケンカをしたがる。そのくせシェパードのようなはるかに強大な犬に会うとシッポをたれて逃げ腰になる。
 一般に日本では犬はケンカをするものと考えて疑わないが、これはチャチな日本産の犬どもだけの話ですよ。外国種の犬は犬同志でむやみにケンカをしたがるものではないし、ケンカをしなければならぬ必要も、必然性も考えられんじゃないか。
 シェパードなどもむやみにケンカしたがる犬ではない。訓練のないシェパードが立ち上るようにしてよその犬に吠えたて、主人が綱を押えて必死に制しているような図を道で見かけるが、あれはたいがいケンカをしたがっているのではないのである。愛犬家は吠え声で分るものだが、たいがい「遊びましょう」と云ってよその犬に吠えかけているのだ。シェパードを飼って正式に訓練しないような主人は本当に犬の気持は分らない人が多いにきまっているから、自分の犬の言葉が分らない。散歩のさせ方も不充分であるから、犬は遊びたくて仕様がないのが普通である。遊びましょうとよその犬に吠え訴えている言葉も理解できないし、その原因が飼い方の至らなさにあることも理解できないのである。よく躾けられたシェパードは決して猛犬ではないし、また本来、日本犬ほどケンカしたがる犬でもない。
 コリーの如きに至っては、よその犬とケンカすることなど考えたこともない。はじめてコリーを散歩に連れだした当座は、よその犬が自分に吠えると、どういうワケで吠えられるのか理解に苦しむという顔をする。生後三ヶ月ちかいころから散歩にだしたが、その当時はすでに成犬の日本犬がコリーをいくぶん守る様子を見せてくれたところがコリーは日ごとにふとるのが目に見える犬だから一ヶ月のうちに忽ち日本犬を追いこして、生後四ヶ月ぐらいでずッと大きくなってしまった。こうなると相手の図体で強さを測量する日本犬には薄気味わるくて仕方がないらしく、遠慮深くなって、コリーの目の色をうかがい、甚しく懐疑的になっているのである。
 かなりよく訓練された、一歳半ぐらいのメスのシェパードが伊東に居って、その主人が時につれてきてコリーと遊んでくれる。まだ仔を生まないシェパードだが、母性本能というのであろう、実にいたわり可愛がってくれるものだ。川のフチを通れば自分が川の側に位置をしめてコリーをかばって歩くし、よその犬に会えばそッちの側に位置をしめて仔犬をかばう。よその仔犬をこんなにかばって遊んでくれる習性も、利巧さも、日本犬にはないものだ。
 小型や中型の日本犬は、犬同志だとむやみにケンカしたがるが、猫だのほかの小さな動物などとは仲良しになる習性がある。要するに臆病だから、相手が怖いためにケンカを急ぐオモムキらしく、敵意や実力のない仔猫などとは安心して仲良くなるもののようだ。むやみにケンカをしかけたがるのも臆病のせいだというのが見えすいていて、チャチな日本犬を飼うとガッカリするものである。
 支那種のチャウチャウという犬が、やっぱり日本犬によく似ている。根が同じものかも知れない。そして現在小型の日本犬と称するものには、チャウチャウとのアイノコも多い。臆病故の勇み肌も同じことで、日本犬以上にケンカをしたがる。敵に己れの存在の知られぬうちに、突然うしろから走り寄って尻にかみつくという日本犬もやらないケンカの手を用いる。存在を知られて正面へまわるともうダメで、ヨダレをたらしてむやみに唸っているうちに、クビの根ッ子をくわえられて二三間ふりとばされて退散する。
 ケンカをしたがる犬は弱虫の証拠なのである。またバカの証拠なのである。ケンカをしなければならぬ理由も必要もないではないか。ただ相手が怖いのだ。疑心暗鬼である。そしてそのようにバカで疑り深くて、飼い主のほかに信頼のおけない甘ったれた性質が、日本犬の番犬に適しているところであろう。但し、よく吠える点では番犬に適するけれども、真の敵と闘う力や勇気の点では疑わしい。どうも日本犬というものは実質的には凡そ番犬に適しない。むしろ狩に用いた方がやや効能があるのではないか。私はバクゼンとそう考えるようになった。

          ★

 私がこのように日本犬について悲観的な考えを持つようになったのもチャチな日本犬を飼ったせいだ。日本犬の中にも外国種に負けない犬がいるかも知れぬ、ということは私の長い疑いであり、希望でもあった。
 こう疑って然るべき理由がハッキリ存在するのである。
 皆さんが犬屋で日本犬の仔犬をもとめる場合に、これは何犬ですか、とお訊きになると、たいがい犬屋は、
「秋田犬です」
 と胸をそらして答えるのが普通である。こうして今では日本犬といえば、大半が秋田犬。東京には秋田犬がウジャ/\いることになっています。そして秋田犬にも小型、中型、大型と三種あることになっており、犬の品評会にも三種の秋田犬がそれぞれ出品されて、別々に審査をうけるのである。
 しかし、小型、中型は秋田犬というべきではなくて、日本犬というべきだ。耳が立って、シッポのまいた犬は日本の各地にザラにいる。むろん秋田にもいる。チャウチャウもそうだ。それらの中に大型秋田の血が一度や二度まぎれこんだにしても、これは秋田種ではなくて、単に日本種というのが当然であろう。
 真の秋田犬とは何ぞや? これまた現代の神話の一ツなのである。秋田犬、秋田犬、と大そうな熱であり騒ぎであるが、本当の秋田犬とはこれです、という解答は東京の愛犬家を歴訪して廻ってもなかなか得られない。
 しかし私は根気よくこの質問をくり返したものだ。そのうちに秋田犬というものもバクゼンたるリンカクだけは少しずつ分ってきた。そして秋田犬というものは大型だけを指すものであるが、これはやや絶滅に瀕していて、秋田県でも大館市という一地域にしか見られない。東京では日本橋のワシントンという犬屋に出羽号の何世だかのメスがいる以外には、血統の正しい大型は殆ど見かけることができないだろうという話であった。
 一般に東京あたりで大型秋田と云われているものには、三河犬との配合が多いそうだ。三河犬に秋田をかけ合せ、その仔をまた秋田に、また秋田にと何回となくくり返すうちに、色や顔の出来が秋田に近づいてくるのだそうだ、この雑種は繁殖力が旺盛だし、テンパーに強い。そして仔犬の時だけはホンモノの秋田よりも立派だそうだが、結局ホンモノのように大きくなることはできない。
 ところがホンモノの大型秋田は大館市に少数残存するだけで、したがって血族結婚になっているから、ニンシン率が甚しく低くて、三期かけ合せても、一期ニンシンすればよろしい方で、しかも一度に幾匹も生れない。二年に一度仔を生めばよろしい方だという。おまけにテンパーに弱くて仔犬のうちにたいがい死んでしまうという。
 そこで本場の大館市からホンモノの秋田と称して売っているものも、たいがいは中型の秋田、否、ただの中型日本犬で、稀にホンモノが売り出されても、これはたいがい育たぬうちに死んでしまう。
 一方、三河製の秋田犬も盛大に売りだされ、これらのイミテーションは繁殖率が高いから、東京の、否、日本中の到るところに秋田犬と称するものが飼われているが、その名犬と称するものも実はホンモノの秋田犬とは違うのである。品評会の一等賞と云っても、小型秋田、中型秋田とあって、これがホンモノの秋田ではないから、要するに秋田犬のホンモノは東京では見られない。ワシントンの出羽号の子供ぐらいが東京で素性の正しい秋田じゃないか、というのが私の東京の愛犬家から探りだした結論であった。
「要するに秋田県でも大館市だけなんですよ。そこ以外には秋田県でも秋田犬は見られないのです。秋田市の人が、これが秋田犬です、と自慢の犬をあなたに見せても、信用してはダメですよ。まっすぐ大館へ行きなさい。このホンモノの秋田犬こそはタダモノではありませんぞ」
 というのが四人の物知りの一致した説であった。その一人が福田蘭童博士であるが、
「あなたがいくら日本犬がキライでも、ホンモノの秋田犬を見れば欲しくなりますよ。ノドから手がでますよ」
 という大断言ぶりであった。
 ところが、私が秋田に向って出発という時に、女房が念を押した。
「秋田の人が秋田犬の仔犬をくれると云っても貰ってきてはダメですよ。日本犬は絶望よ、見るだけでゾッとするわ」
 という、これはまた念入りのゴセンタクであった。わが家の者どもが日本犬に身を切られる思いをしているのは切実であるから、蘭童博士の大断言よりもこの言葉の方が私の身にもしみるのである。
「よろしい。秋田犬はコンリンザイもらってこないが、秋田オバコを仕入れてくるぜ」
 と出発した次第であった。

          ★

 出羽の国というところは私が目下やや熱中している歴史にとっても大切な土地なのであ
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