る。しかし歴史のことは当分ふれないことにしていた。ハリマと四国も大切な土地で、先月はハリマへ行ったが、この時もわざと歴史のことは考えなかった。特に結論を急ぐことは害があるものだ。
 秋田犬とオバコという現代の神話的存在をマンゼンと鑑賞して御報告いたそうという、今回は実にノンビリした旅行であった。
 上野駅というものが、すでに雰囲気がちがっている。見送人の数が大変である。みんな親類縁者であろう。東海道線では見られない風景である。秋田行の箱にのると、すでに車内の言葉が一変しているのである。ここは一体どこか? すでに東京でないことだけはたしかである。
 東京駅にこのような風景が見られないのは、東京駅にはフルサトが失われているのか、距離が失われているのか。私のような風来坊にも切ないのは、よけいな悲しい時間である。駅頭の別離も、上野駅で発車前の車中にすでに誰かのフルサトがあることも、私には切ない。人の別離を見ても、人のフルサトを見ても、切ないものです。ビジネス・オンリーの私の旅行も、まず出発からタジタジであった。
「どうも、この上野駅の風物が、日本犬的なところがあるぞ、さては、秋田犬も……」
 と、私は大いに悲観的に考えこまざるを得なかった。おまけに車内の人たちは傍若無人である。すでに寝ている私を叩き起して、自分の椅子の位置をかえる。彼ら四人は椅子を向い合せにして語らっていたので、自分の椅子を平行に直してねむるために、寝ている他人を叩き起す必要があったのである。
「これも日本犬に似ているなア……」
 と、私はまた、ふさぎこんでしまった。寝ついたトタンに起されて、私は一晩ねむることができなかった。したがって、翌朝秋田市についたときには、完全にノビていた。
 私の生れた新潟市と秋田市はよく似ている。まったく同じものは裏町である。裏町の中流の庶民住宅である。みんな横に傾いたり、家全体がひんまがっているのである。雪国の悲しい特色の一ツであるが、家の造りがいかにも薄く軽く安ッぽいのは、中位の堅牢さよりもこの方が雪に抵抗し易いせいもあるかも知れない。そして人間がまッすぐに立つのに苦労しそうな傾いた家々に人々は平気で住んでいるし、雪につぶされたという話もきいたことがない。しかしほッたらかしておけば、いつかは倒れるだろうし、いつかは修繕したり、たゝきこわして造り代えたりするのであろう。この傾斜の限度が、どこにあるのか? フルサトの裏町に似た秋田の裏町をぶらつきながら、チョコンと傾いて並んでいる家々の傾斜の限度がひどく気にかかりましたよ。そして傾いた屋根の下に、長い一冬の雪の下に、アキラメと楽天との区別のつかないアイノコが人々の心にしみつき、育って行くのである。
 秋田の街は戦災をうけていない。恐らく終戦後三年か四年の後ならば、私の受ける感じはちがったものであったと思う。今日ではすでに東京の主要な場所はバラックながらも再建されて焼跡の汚さは見受けることができないし、大阪も、その他の多くの戦災都市も、私の見て歩いた限りでは八分通り再建作業が出来ている。
 焼跡の再建都市はバラックではないにしても、乏しい資材で間に合せたバラックまがいの街なのである。それですらも焼けない都市よりは見た目に明るく美しい。整然としてもいる。
 美しい港町と云われる長崎すらも――この港町は原爆で屋根やガラスに被害をうけたが、焼けることなく昔日の姿にかえっているのだが、むかし居留地だった洋館地帯をのぞけば、むしろ戦災をうけないための汚らしさの方が、今日に至っては目立つのである。小京都とよばれるヒダの高山も、そして秋田の街も、そうである。戦災をうけないための汚らしさ――それは異様な、しかし、うごかすべからざる事実ですよ。この異様な事実に目をうたれるとき、胸につきあげてくるのは日本庶民生活の悲しさです。
 日本の木造建築にも、ピンからキリまである。法隆寺や平等院から雪国の小作農家に至るまで。だが、庶民住宅というものは、百年前から今日に残ったものでも、ほぼ今日のバラックと変りのあるものではない。焼跡のにわか造りのバラック都市ですらも、それが新しいために、そして道路がひろげられて明るいだけでも、焼けない都市の昔ながらの汚らしさがないのである。要するに古来の日本庶民の住宅というものは、いかに資材が豊富なときでも、バラックの域をでることができなかった。たとえば昔の大工や左官が手をぬかなかったために、百年百五十年の耐久力があるにしても、それは、単に耐久力というだけで、庶民生活の豊かさを住宅自体が表しているような豪華なものはどこにもない。
 武家屋敷ですらも、中位以下のものになれば、古びて残った哀れさ汚さは、新築のバラックに劣ること万々である。
 戦争で焼けたバラック都市を見るよりも、焼かれずに残った、昔ながらの都市を見る方が、日本の庶民生活の貧しさ悲しさに目をうたれるのである。まして雪国ともなれば、風土的にどうにもならない貧しさ悲しさが一そう甚しく目をうつものだ。秋田市は徳川三百年一貫して佐竹氏の城下であるが、領主がいかに善政をしいたところで風土的にどうすることもできない貧しさ悲しさは街々の古い姿にハッキリ現れている。
 雪国の小作農家の住宅はひどいものだ。特に小作の多かった新潟県がひどい。東海道、山陽道等の一般農家建築とは、比すべくもない。その小さいことも論外だが、屋根にはタクアン石のようなものを並べ、壁は荒壁のままである。これ式の農家は秋田県にも少くないが、二階に張りだし窓のような独特のフクラミをもった藁屋根の中農家が目立つので、新潟県の農村ほど寒々した感じがない。
 屋根に石をのッけた農家は、飛騨の農家がそうである。ところが、飛騨の農家は概してそう小さくはないし、独特の様式があって、その様式に多少の文化、工夫とかユトリとかを感じさせる。飛騨の農家は屋根の傾斜が甚しく緩やかである。これは大家族主義で有名な白川郷の農家の屋根が急傾斜なのとアベコベで、白川郷の屋根だと屋根裏部屋が前後にしか採光でぎないが、タクアン石をのッけた屋根のゆるやかな新農家は、屋根裏部屋も前後左右から採光できる。おまけにこの屋根の先端を前後左右ともに長くのばして、二階の左右の窓は屋根が軒の作用をして風雨をしのぎ、前後の窓の外側には屋根から塀のような板ばりを垂らして風雨をしのぐ仕掛けになっている。この板ばりは敷居によって左右に開閉できるから、晴天の日はこの塀の戸を左右にあけて、二階に光を採り入れることができる。ガラス戸や雨戸がないころ、障子だけしかなかったころの産物であろう。ガラス戸や雨戸が自由にとりつけられる今日でも旧態依然というのは智恵のない感じがするが、これを工夫した当時としては相当の工夫であったに相違なく、ともかく一ツの建築文化を感じさせるし、総体に建物も大きく、延坪から言えば新潟あたりの小作農家の十倍以上はタップリあろうというものである。なお、屋根に多くのタクアンの重石のようなものをのせるのは、クギを用いないためであり、つまりクギによる雨モリを防ぐための当時の新工夫であったらしい。恐らく白川郷的な農村建築が先に在って、その屋根をゆるやかに改めることによって屋根裏の採光を工夫し、ワラぶきを軽いコッパぶきにすることによって積雪時の屋根の重量を軽減し、またクギの代りに重石をのせて雨モリを防ぐことを工夫した、という次第ではないかと考えられる。
 とにかく飛騨の農家というものは、コッパぶきと重石だけは同じだけれども、独特の工夫もあるし、大きくもある。耕作面積が猫の額ほどしかない山国の飛騨の農家がはるかに立派で、日本有数の米どころたる新潟や秋田の農家が他国の農家の馬小屋の如くに貧困極まるものだというのはウソのような話だ。小作制度というものが論外の悪制度であったのが第一の理由には相違ないが、新潟や秋田の積雪の甚しさも論外なのだろう。冷害や水害や、辛うじて一毛作しかできないという風土の貧しさや暗さは、雪国の農民住宅にも、町の庶民住宅にも生々しく現れすぎている。建築の骸骨のようなものである。昔から骸骨のような家にしか住むことのできない雪国の庶民であった。
 焼け残った都市が焼跡のバラック都市よりも汚く暗く侘びしいということは、銘記して我らの再建作業の課題とすべき重大事ではありますまいか。私は秋田市の裏通りを歩きながら、日本の暗さ悲しさにウンザリせざるを得ませんでした。保守党だろうと、進歩党だろうと、そんな区別は問題ではない。いやしくも庶民の代表たる政治家たるものが、庶民生活のこの暗さや貧しさに打たれないのがフシギではありませんか。祖国の力が尽きはてるほどの大戦争に敗北し、生活の地盤の大半が烏有に帰し、その荒涼たる焼野原へ不足だらけの資材をかき集めて建てたバラック都市ですら、焼け残った都市よりも立派なのだ。
 焼け残った都市が焼け跡のバラック都市を指して、この戦争の惨禍を見よ、戦争の悲しさを見よと言えないことは奇怪千万ではないか。そう云えたのは焼跡が暗黒マーケット時代の三四年間だけのことだ。たった五年目、六年目で、もうそれが云えない。今では焼け残った都市の方が逆に汚く貧しげで、戦争前の庶民生活が豊かで平和でたのしかったことを実質的に語っているような誇りやかな遺物は殆どない。きわめて一部の社寺や大邸宅が華やかな過去を語っているが、それは大多数の庶民生活にはカカワリのないものだ。秋田県の山村で、車窓から見た小学校の建物などは、爆撃直後の半壊の小学校よりも甚しく、正視に堪えないものがあった。窓のガラスもなく、片手で押しても忽ちつぶれそうな破れ放題のアバラヤ学校であった。
 欧米では、保守党たると進歩党たるとを問わず、国民の生活水準を高める、ということは政治家の当り前の役割である。他の政策はちがっても、これだけはあらゆる政党に共通した義務の如きものである。ヒットラーでも、労働者に鉄筋コンクリートの住宅を、自家用車を、と叫んだものだ。
 ところが日本の政治家や政党は、この戦争に負けるまで、国民の生活水準を高める、という政策をかかげたことすらもない。労働者のための政党までそうで、働くことだけが正しくて、否、貧乏の方が正しくて、生活に娯楽をとりいれたり、楽しむことに金を費したりすることは悪いこと、ブルジョア的な誤った考えだというタテマエであった。
 戦争中なら国民に耐乏生活をもとめることも仕方がないが、平和な時代にも耐乏生活を正しいものと考え、生活をたのしんだり娯楽に金を使うのをムダ使いであり悪いことだと考えるような政治家は完璧に政治家の第一番目の落第生にきまったものだが、明治に政党の起って以来、保守党も進歩党も耐乏生活を要求したり謳歌したりするばかりで、国民の生活水準を高めることなど、念頭にとどめたことがなかったのである。
 戦争に負けた今日に至って、アメリカ的な政治常識を猿マネして、国民の生活水準を高めるという政策をにわかにどの政党も一筆書きこみはじめたが、本心からそれを考え、その理想のための個人や党の総力をつくすことを真剣に考えている政治家や政党があるだろうか。国民全体の暮しを楽しく良くするために、また全体の幸福のために、ということには、自分をも国民全体の一人として見つめているシッカリした思想の足場がいるものだ。亭主が酒をのむために貧乏し、家庭生活が破壊されると云って酒の害を説き、酒の害を憂える女房や思想家や政治家は少くない。しかし、酒好きの人間が酒を楽しむこともできないという貧乏の方が悲しむべきことではないか。亭主が好きな酒をたのしんでも家庭生活が破壊されないぐらいのサラリーへ、生活水準へ高める必要のあることを考え、生活水準の低さや国民全体の貧乏を悲しむことを何よりも先に、また切実に知ることが、女房にとっても、政治家にとっても、当り前の考え方というものであろう。
 しかし、そのような当然きわまる考え方や、豊かな生活を、日本の庶民生活の歴史の跡から見出すことはむずかしい。蓮の花のひらく音に耳かたむける静寂を知り、一茎の朝顔に丹
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