というところは、見どころがある。その見どころがある限りは、訓練次第で犬同志のケンカなどはサラリと忘れた性質へ持って行くことができるかも知れない。
ホンモノの大きな秋田犬というと、人々は闘犬、ケンカを考える。東京で私に秋田犬のことを教えてくれた四人の物知りたちも、秋田犬といえば闘犬、今でも大館では闘犬が行われているようなことを私に教えた。
そういえば私の少年時代、新潟市でも、大きな秋田犬を飼って闘犬をやらせるのがはやっていた。それは紅白のシメナワのような太いものでタスキ十字にかけたいかにも犬の力士のようなケンカの専門家という見事な押し出しであった。大館では今でもそうだということを四人の物知りは説明してきかせたのである。
とんでもない大ウソですよ。第一、力士然とタスキ十字にからげた豪傑などは一匹もいません。一等賞の大名犬も、二等賞の中名犬も、みんなが言い合せて諸事ケンヤクを専一にこれつとめているように、実に貧弱で安ッポイ駄犬用のようなクビワをかけているだけだ。
東京では、やせてチッポケな、ニセモノの秋田犬に横綱のようなシメナワを十字にキリリとかけて歩かせたりしているが、大館のホンモノの方には、十字のタスキをかけた犬など完全に一匹もいないのである。そして完全に駄犬用のチョロ/\した安輪を首にかけているだけさ。
今や大館の愛犬家にとって、ウチの愛犬がケンカをやらかしては、これ天下の一大事なのである。なぜなら、ホンモノの秋田犬は減る一方なのだ。ニンシン率が全然低くなるばかりであるのに、テンパーに弱い。なんとかして、わが愛犬に、またはわが愛犬の種を生ませてお金モウケをしなければならぬ。ケンカしてカタワになっても一大事だし、死んでしまえばすでに天下の終りではないか。
だから闘犬などゝいうことは、すでに大館には影も形もない思想なのである。また、闘犬ということは、秋田犬本来の性格でもないかも知れない。自分よりも小さな犬は相手にしないという性格には、自分と同格の者も相手にせずにいられる素質を示しているようにも思う。闘犬という習慣と、そういう意識による飼い方が、犬自身には不本意な性格になれさせてしまったのかも知れない。
二匹のオスを合せると、先に闘志をもやして勇み立って吠えるのと、一向に動ぜず、だまって身じろぎもしないのと、いろいろタイプがある。結局、先に吠える方が弱いとい
前へ
次へ
全20ページ中16ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング