シュミーズ一ツでバレエの基本をやってればそれはまさに草木的なものです。一応容姿が平均しているのか、そうでもないのか、そういうことが念頭にかからないぐらい草木的なものだ。しかし子供の教室で、そろってヨソ見をしないということは、それだけのことでも珍しい部類なのかも知れないな。草木的にしか見えない生徒というのは、良い生徒、良い教室を意味しているのかも知れぬ。
 事務所の三階の階段を上った廊下が掲示場になっている。三階にはいくつかの稽古場があって、ここは一人前になった生徒たちの公演用の稽古場だ。生徒たちは稽古の往復に掲示場にたたずむ。稽古の日割りだの、何々さんと何々さんは何月何日の黒ン坊大会の審査員になって下さい、というのだの、税金の相談は事務所へ、という火の用心の札の同類のようなのもあった。それを見るまでは宝塚の生徒の税金のことまでは考え及んでいなかったが、なるほど彼女らは相当の多額納税者であるに相違ない。当節はどこに生々しい血痕のような黒旗のようなものが掲げられているか分らないから、女の学校の掲示場をのぞくにも真剣勝負の心構えを忘れると、胸をさしぬかれてしまう。セチ辛く、風雲ただならぬ世の中である。もっとも、ここの掲示場にたたずむ生徒たちは、たのしそうである。戦場の難民が占領軍の掲示場にたたずんでいるような全身に赤々と千里の斜陽をあびてる面影は全然ない。どこの世の掲示場にも拭いきれない生活の重さ暗さがジットリ影を落しているものであるが、ここだけは税金の相談は事務所へ、だの、火の用心だのと一応世間並のSOSがはりだされていても、拭いきれない生活の暗さや、背にしがみついた人生の重さは、たしかにないね。この掲示場へウカツにもたたずんだ私だけがただ一人の難民で、彼女らぐらい保護になれたアンチ難民的存在もないような気がした。
 この事務所を一歩でれば、隣は大劇場の楽屋口で、その道の並木の下には十六七の娘たちが三々五々、またエンエンと勢ぞろいしてスターの楽屋入りを待っている。これこそは難民であろう。つまり宝塚の生徒は十重廿重にとりまいた難民たちによって手厚く保護せられているのであるから、これはまた奇怪なブルジョアで貴族で、これを徹底的な大ブルジョア大貴族と申すべきであるかも知れん。彼女らが歩く天下の道は全て難民が寒暑をいとわず献身的な保護に当っているのだ。そして手厚く保護せられた動物のよさが宝塚のものではあるが、その弱さ、甘やかされたバカなところも宝塚のものではある。
 だいたいに芸術家とは同時にバカである。ただ一念芸道に凝ってドンランあくなき芸熱心の手合に限って、ジャジャ馬で、ウヌボレ屋で、箸にも棒にもかからぬという鼻もちならぬバカである。
 ところが宝塚の諸嬢は、そのバカなところまで上品で節度があるような温室の草木的オモカゲがはなれない。箸にも棒にもかからぬバカなところは保護者の難民たちが引きうけているせいかも知れんが、芸道に対して本当にドンランなきびしさを忘れているせいでもあろう。芸道にたずさわるものは、手に負えないバカなところがなければならぬものだ。バカなところも温室の草木なみだというのは、世間的にはスターでも芸道の素養に於ては要するにいつまでたってもタダの生徒、徒弟だという意味でもある。要するに大がかりで、良く出来た学芸会というのが今までの宝塚の性格なのである。
 私は真夏の炎天の下を、七万坪の宝塚の遊園地を隅から隅まで廻って歩いた。イヤ、歩かされた。ここの案内者は活動屋のように進んで国辱を見せようと粉骨砕身する奇怪な風格はないから、つまり七万坪の隅から隅まで御自慢のものである。しかし宝塚の女子占領軍は多くのことには慾念がない。というのは、学問もないし、したがって興味もないし、サビを愛するような心境もない。当り前だ、ジジイやババアのようにサビを愛していられるものか、と抗議を申しこんではイケませぬ。どうも上方《カミガタ》に知人があって、そこのウチに娘が居ると、来客に対してムヤミにお茶(オウスと云うのかね)を一服もりたがるのでこまる。もうタクサンだと云わないと二服でも三服でももりたがる。娘や婆さんが犬の出入口のような小さな穴からムリに現れて一服もるのである。人のウチや人の町が戦争で焼けてしまえというようなことは冗談にも云うべきではないが、日本の大多数の都市がムザンに焼けたのに、京都が、イヤ、京都と云うとイケないが、つまり例の娘が出たり引ッこんだりする犬の出入口の最も多い京都が、イヤ、つまり犬の出入口のある奇怪の宴会室の多くが焼け残ったというのは、怖るべきことだね。上方《カミガタ》の娘はムリに犬の抜け穴から現れて一服もることに熟達しているが、彼女らはたいがい同時に宝塚の難民の一人でもある。ところが犬の抜け穴から現れて一服もるのは風雅やサビにかのうものだという話だが、この難民が占領している宝塚には、難民がサビを愛した遺跡というものはないのである。
 否。否。宝塚には茶室があるぞ。国宝の風格をそっくり移したサビの根本道場があるぞ、と云って怒る人があるかも知れんが、それは難民の遺跡ではないのである。小林一三さんの道楽である。もっぱら茶人とか俳人という現代に於ける半獣半神的人物が神つどいを催す席で、難民たちの多くはその存在すらも知らないなア。
 もっとも小林一三さんの秘密の初志によると、半獣半神の神つどいに供するためではなくて、難民たちの風雅の会に供するためであったかも知れない。小林一三さんほどのケイ眼な実業家ですらも、一度はこの難民にだまされてもフシギはない。犬のヌケ穴からムリに身を現して一服もるという困難な所業が、全然他に活用する意志のない面従腹背の学習だということは誰にもはじめは分らない。これこそ難民の性格なのである。そして、サビに対して面従腹背の難民に保護せられたものが宝塚少女歌劇であるということが分ると、宝塚を理解するのはもう手間がかからない。
 あの楽屋口のひしめき、叫び、それからタメイキに耳をすましてごらんなさい。面従腹背のトモガラがひそかに忠誠を誓った神を迎える逆上ぶりなのである。要するにこのトモガラは面従腹背を一生の定めとしていることを現しているようなものさ。このトモガラは忠誠を誓った神の名を一生にタダ一度云うだけで、あとは生涯貝のようにフタをとじて語らない。一生に一度だけ本当の神の名を告白するというわけは、その告白が罪にならなくて、公然と許されており、またそうすることが英雄的行動の誇示にもかのうからである。宝塚難民の逆上混乱、颱風的様相というものは、その数年後に貝ガラのフタを堅くとじて一生自分の神の名を、また本当のことを語らなくなる冷静きわまる人物の本性を証しており、後日の深謀遠慮に比べれば、実にウカツにまたフシギにもシッポをだしたものであるが、つまりこの冷静きわまる人物が罪の意識を失って世を怖れなくなる時には何事をやるか分らない。原子バクダンを自分のキライな奴の頭の上でドカンと一発やることについて、その本性に於ては人をはばかり世をはばかるところはない。彼女自体がネジによって辛うじて自然のバクハツをくいとめている原子バクダンそのものに外ならぬのである。この彼女を宝塚の難民とも云うし、単に、女とも云うのである。そしてこの怖るべき人物たちがその人生の初年に於て宝塚の大バクハツを完了してくるということは、日本の男の子の地上のささやかな平和を約束してくれる慶事慶兆であるかも知れん。宝塚こそは日本の地底の烈火を調節してくれる安全弁ですかね。
 宝塚の遊園地では、劇場と動物園だけが主として難民に占領せられている。植物園となると、わずかばかりのアベックの散歩用に使われているだけだ。ここには相当の珍種があるのだそうだが、私とても傍系の難民だから、焚火をする以外に植物の名も用も知らないのである。植物園の中には図書館があるし、昆虫館も、水族館もある。図書館には遠方から本を読みにきた人のための寝室があったそうだ。拙者が諸国に居候をしていたころ、この図書館の存在と目的が分っていると、当然宝塚の居候となって、今では含宙軒博士も舌をまくほど植物昆虫に至るまで通じていた筈であろう。その目的が失われてから存在が分っても、ガッカリするばかりで意味をなさんよ。
 また昆虫館も相当のコレクションで珍種が多いそうだが、特に小さなハチやアブや蝶に限って相当に盗難にかかっている。犯人は子供だろうという話だが、特に小さい昆虫を選んでいるのはどういうワケだろう。小さいのに珍種が多いのだろうか。持ち運びの便利のためなら特に昆虫の大小の如きが大問題でもなさそうだ。もっとも小さな虫の標本はどの箱の場合でもその最下部にある。苦心して標本箱のガラスをずり動かした場合に手ッとり早くマンマと手に入れられるのは小さな昆虫である。ところが標本箱のガラスは開閉の便を考えて造られたものではなくて、すでに出したり入れたりする必要のない内容の全部をそろえた上で、それを密閉する目的だけのために造られたものであるから、単にガラスを開けるだけでも素人には困難な作業で、人目を盗んでカンタンに開けられる仕掛けになってはいないのである。
 ところが昆虫泥棒はその困難な作業を手際よくやっているばかりでなく、彼の去ったあとには標本箱は元のようにガラスに密閉されていて、内容の昆虫をしらべなければ盗難が分らない。標本の名札があって昆虫の姿がないという盗難の跡を示している箱は相当の数である。実にフシギなことだなア。宝塚に於ては、泥棒に礼儀が行われているのであろうか。元のように箱の密閉がほどこされていることは発覚の怖れのためもあるかも知れんが、元のようにする時間と、十メートルほど歩いて立ち去るまでの時間とでは前者の方が時間を要するようだから、発覚を怖れるせいではないようだなア。すると自分の盗むのはかまわんけれども、他人が盗むのは甚だ不都合だという思想によるのかも知れん。こういう思想はマニヤの思想であるが、そんな思想の少年が居るなら、彼の泥棒行為を憎むよりも、その情熱の偉大さを証するに足る完璧な遂行作業に賞状を与えるべきかも知れないな。宝塚には後生怖るべき大昆虫学者の卵が棲息しているのかも知れませんな。しかし、かように落付き払った泥棒作業が何回となく初志の通りに完了されているということは、劇場と動物園以外の場所が、そして実にチョッピリと俗でないような面構えを示している場所が、ここを占領している難民たちにいかに完璧に黙殺され無視されているかを示しています。これは大阪を中心にした上方《カミガタ》の一般の気風であるかも知れません。
 植物園の中には五十|米《メートル》プールもあったが、子供が三人ジャブジャブ遊んでいただけであったし、馬場もあって、緑の乗馬服をりりしく身につけた娘調教師と数頭のタダモノではないらしい立派な馬もチャンと揃ってお客を待ってる様子だけれども、例によって他に人影は殆どなく、劇場と動物園のほかは全てのものが存在の目的も理由も失っている。だから、タダモノではないらしい立派な馬も仕方なくブラブラしたり逆上的に走りかけてみたり諦めてみたりしているし、美しい緑の乗馬服にピカピカした乗馬靴をはいてチャンとムチまで手にしている少女調教師も仕方がないから水道の蛇口を指で押えて噴水をつくッて馬にぶッかけて実用と娯楽の両面兼備のヒマツブシに熱中したりしている。
 モッタイない話だなア。私は東京の馬湯もその他の馬場も知らないけれども、美しい乗馬姿にりりしく身を固めた美少女の馬係りがお客の世話をやいてくれる馬場の話などはきいたことがない。同じように美少女と動物を活用しても、大入り満員なのは劇場と動物園だけで、その他はどうしてもダメらしいや。
 美少女と動物で思いだしたが、「虞美人」ではホンモノの馬と象を用いていた。春日野、神代両嬢が項羽と劉邦に扮して最初に登場する時は舞台の両側からホンモノの馬にのって現れる。春日野嬢はまさに帝王の様式の如くに白馬にまたがっていらせられた。
 すべて芸術はガクブチだの舞台だのと限定や
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