制約からくる約束があって、要するにナマの写実やナマの現身《うつしみ》は芸ではないと云っても、それは人間についてのことで、二人の人間が馬の着物をかぶって一匹の馬になったツモリらしくシャン/\と鈴をならして現れる怪物は、それが約束というもんだといくらその道の奥儀を説いてきかせられても、ウーム、そうか、これが約束というものか。実に立派だ。あの役者は馬の芸が達者だなア。あの馬の見栄の切り方を見なよ。これを名人芸と云うんだなア、と云ってほめることができる性質のものではありやせんなア。
 宝塚は利巧ですよ。たしかに馬ぐらいはホンモノを使うべきですよ。しかも、使い方が巧妙ですよ。塩原太助にホンモノの馬を使っても変なものだ。なぜなら、人間の役者の方が手拭で涙をしぼりながら、アオよと泣いて熱演しているのに、馬だけがホンモノで全然ヌッとホンモノの馬面を下げているだけでは、どうにもウツリが悪いね。
 宝塚の馬は項羽と劉邦がはじめて登場する時に乗って現れてくるだけだ。そして馬上の両雄が、我は項羽なり、我は劉邦なり、と馬上で見栄をきってサッとひッこむ時だけに用いている。両雄の初登場がリンリンと力がこもって目覚ましく生きているのもホンモノの馬を使ったからでもあるし、またホンモノの馬を使いうるのでこの登場ぶりを発案し得たのでもあろう。とにかく慾の深い、むさぼッた使い方はしていないし、最も生かして使っている。ここの先生方はたしかに頭がよろしいな。敬服しました。
 馬はよその土地の公演でも使えるかも知れないが、象は動物園を所有しているこの根拠の大劇場でだけしか使えないのかも知れない。しかし諸事に於て日本全体が不備だらけの敗戦直後の今日ではムリであっても、多少のムリも覚悟の上で象でも鯨でも公演地へ輸送する心構えは必要であろう。出演時間が十秒か三十秒のものであっても、その効果の必然性が算定されている舞台なら諸事に手落ちも手抜きもなく再演を期してゆずらないのが芸道の良心、芸術家の支えというものだ。しかしそのような本建築的な心構えはここの先生方には一番期待がもてるようである。とにかく単にコケオドシにホンモノを使うのではなくて、それを使う必然性や、効果的な使い方が実に正しく考案せられているのであるから、芸術はゼイタクである、ゼイタクでなければならぬ、ということの正しい意味を本質的に身につけている先生方に相違ない。単に無限にゼイタクが許されたって、芸術は生れやしない。各々の物をそれぞれ本当に生かして使うことが才能というもので、その本当の才能は費用が不足ならそのワク内で最大限の効果を考案しうる才能でもあるし、臨機応変の術こそは天分というものだ。それぞれの本当の効能を知り生かしうる人が、本当のゼイタクを知り、味う人なのである。
 宝塚の難民は七万坪の遊園地のうちで劇場と動物園にもっぱら群れをなしているのであるが、劇場は大中小とあって、それぞれは廊下でつらなり、廊下の左右は売店であるが、全日本の都市や温泉街の売店街の様相がそうなったと同じように、売店の半分は目下パチンコ屋に転じて盛業中である。
 全国いたるところのパチンコ屋は、中学生高校生おことわり、などゝ禁札を立てているようだから、丸帽子をかぶったニキビだらけのがアキラメわるく三四人むれをなして入口にたたずんで内部をのぞいてみたり、通行人に言葉をかけてみたりしているけれども、彼らすら敢て堂々と禁制のパチンコを行う勇気にかけている様子であるから、娘だの女学生だのというものがパチンコをやってる姿はザラに見ることのできる性質のものではない。
 ところが宝塚の難民は主として若い女、女学生と、その姉妹に当る年齢程度の女の子が大部分なのである。よその土地ではこの年ごろの娘がパチンコをやったりボットル落しをやったりするのは常識でもないし、殆ど可能性ですらもない。ところが他の土地では可能性ですらもないことを彼女らはこの土地では必ずやると看破した宝塚商人の眼力というものは、これはまた世に怖るべきものだなア。
 可能性ですらもないなどゝは、とんでもない話だね。ここの縦横の廊下に、パチンコ屋だのボットル落しだのホームランゲームだのと、その店の数だって人口三万の東海道の温泉都市と覇を争うほどの盛大なものだ。その全ての店内の全てのパチンコ台も空気銃もみんな女学生に占領されて、ガッチャン、ガッチャンと賑やかなものですよ。
 彼女らは短気だねえ。ゲームを味ったり、哄笑によって敗戦を認めて思いきりよく諦めるような寛大なところも、ユーモアもないらしく見える。必ず勝たねばならぬ、否、敵を倒す、否、一撃もって敵のノドクビを切断する、というような気魄が充満しているし、寸時といえども攻撃がゆるみ、斬り込みの脚力も刀さばきも休むようなところがない。マナジリを決するとは、まさにパチンコ屋に於ける彼女らを云うのであろう。姉も妹も、すでに、ただ単に無限の攻撃突貫を意志している鋼鉄のタンクそのものらしい。二人は顔を見合せることもないし、戦友らしく励げましの言葉をかけ合うようなチャチな人情の如きに目をくれる甘ったるい兵隊ではないのである。妹は攻撃が停止する寸刻がもどかしくてたまらぬらしくセカセカと空気銃を膝へ当てて折って、もしも袖ナシの服でなければ、やにわに腕まくりをしたであろうし、それすらももどかしくて袖をちぎって捨てずにいられないような充実しきった攻撃精神やセンメツの気魄によって、前へ、前へ、身体が押しだされ、延びて行く。彼女はまだ中学生であろう。頬はリンゴのように真ッ赤になっているし、眼は三白眼かヤブニラミに見える。それは捕虜をとらえればその場で処刑する戦意を示しているのである。彼女はふと気がついて帽子をぬいで台の上においた。彼女の帽子はアゴヒモのついた丸いツバのある夏の帽子で、鉄カブトよりも戦闘に不自由であったらしい。
 この土地にきてはアベックなどはダラシがなくてミジメそのものの存在さ。男と女が恋愛をする、その恋愛によって、互に相手に良く思われようと言葉の数を控えてみたり、言葉の表現や表情に意をめぐらしてみたりする、食堂で中食をたべてもあんまり大食と思われるかしらと考えなければならないような衰弱しきった自己表現や和平運動というものが、いかに不用で、ミジメなものかということが、この土地に於てハッキリするようである。人生とは戦争である。否、一撃のもと敵のノド笛をきり、イノチを断つことだ。和平運動とは衰弱者の妄想だ。男と女が食事や言葉をひかえて妥協和平をカクサクするのは彼らが衰弱しきった病弱者だからである。結局そういう結論を宝塚のパチンコ屋で戦意とみに昂揚している娘たちが教えてくれるのである。
 だからアベックは仕方がない。自然に植物園へ追放されて木蔭のキノコかのように益々モタモタとムダな時間を費している。とにかく仕方がないのさ。女だけのパチンコ屋というものはフシギの多い日本のうちでも宝塚にしかないだろうからねえ。ここは女だけ集ってパチンコ程度の殺リクをやってるだけではなくて、独特の思想も、政治も行っているようなものさ。マキャベリの如きものは女将軍の背中を流す三助にも当らない。ただの女兵隊の背中を流す光栄を許されうるかどうかすらも分らない。天下に宝塚の女兵隊ほど恐しいものはない。
 男の子が辞をひくうして女兵隊に懇願して、宝塚の歌劇を男にも見せて下さい、彼女らに男のための芝居もやらせて我々に見せて下さいませんか、と頼んで、ウカツな女将軍やスターの誰それがその懇願を入れる気風が見えた場合に、女兵隊がクーデタを起して男女対立のアゲクがついに悲劇的なセンメツ戦に終りはしないかという切実な大問題が残っている。この女兵隊から宝塚を男側に半分ぐらい奪取し引きよせた場合に、女兵隊が何物になるか。鬼神となってセンメツの斧をふるうか。仏門にはいって世を捨てるか。その他の何物になって何事をやるか。史上に前例もないし、これほどの大事件が異国にあったこともきかないから、どういうことに相なって、日本の悲劇になるか慶事になるか、誰にしても分る筈はないのである。
 事、宝塚少女歌劇に関する限り、少女歌劇そのものはすでに私が実地見学の次第を申上げたように、決して大それたものでもないし、畸形なものでもないし、まア一般に全ての人がたのしめる程度にまッとうでまとまりのある劇団だ。複雑な風雲と謎をはらんでいるのは目下宝塚を占領中の女兵隊難民諸嬢で、少女歌劇が自分だけの所有でなくなった場合に何物になっていずこへ行くかという怪ホーキ星の進路のような物騒で予測しがたい問題がのこっているだけである。
 男の子は我慢と辛抱が大切であるから、宝塚は男が見ても面白いと分っていても、ジッと我慢して、わりこむことを避けるのが無難な方法には相違ない。しかし、せっかく男女同権になったというのに、そうまで卑屈に敵の意のままにしたがい、敵のセンメツ的な殺意や巧妙な戦術や一騎当千の暴力を敵対しがたいものと定めて事前に白旗をかかげるのも、どうかと思う。新時代の新風にしたがえば、男女は同権であるし、正義はこれを主張しても差支えないものであるから、
「男にも宝塚を見せろ!」
 というプラカードをかかげて銀座や皇居前を行進しても、婦人警官に襟首をつかんで堀の中へ叩きこまれるようなこともないかも知れん。とにかくいっぺんはプラカードをかかげて女兵隊の様子を見るところだろう。あわよくばこの機会に女兵隊の気勢をくじいて、男女共存共栄という方向に漸次転向してもらう。いっぺんは試みて敵の様子をうかがうだけの勇気と断行が必要らしいな。
 しかし、宝塚が「虞美人」というダシモノを選んだのは、宝塚少女歌劇自身が女兵隊の占領にあき足らないような反逆精神もほの見えるのである。
「ひろい天地」をめざしてバラック映画へ立ち去った諸嬢とても、その本心は占領の女兵隊に対する反逆によるものであろう。当人は持ってまわって考えて、自分では気がつかないが、フロイドという先生は宝塚を見ないうちにチャンとそれを予言して死んだ。つまりそういう自ら気付かぬ反逆を潜在意識といって、これを気がつかずにそのままにしておくと発狂するような悲劇が起ったりする。
 それらスターの最近の流行を思い合せれば、宝塚の他の多くの諸嬢の心中にも女兵隊に対する反逆が充分に育っているとも見られ、まさに公然反逆すべき時期に至っているのかも知れない。そこで男の子の側からも、男にも宝塚を見せろ、とプラカードをかかげる時がきているのだと私は判定したのである。



底本:「坂口安吾全集 11」筑摩書房
   1998(平成10)年12月20日初版第1刷発行
底本の親本:「文藝春秋 第二九巻第一三号」
   1951(昭和26)年10月1日発行
初出:「文藝春秋 第二九巻第一三号」
   1951(昭和26)年10月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:深津辰男・美智子
2010年1月13日作成
青空文庫作成ファイル:
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