もっとも古典劇というものは、型はあっても、性格は没するものであるけれども、宝塚に性格がないのはそれとは違う。古典劇の様式を多くとりいれてはいる。春日野、神代の両嬢が男に扮して宝塚的な男性美を発揮するのは「虞美人」に関する限りはカブキ的の約束や所作を利用しているところが多い。そして成功してもいる。やっぱり芸達者なのだね。鴻門の会などは、あの広い舞台で消えもせずにちゃんと持ちこたえるのだから、感心しましたよ。しかし、ああいう大舞台で、項羽と劉邦とが巨人のような大きさでグッと見物人にのしかかるようにならないと、本当の大舞台とは申されない。
しかし、春日野、神代両嬢は、そういうことが、やれそうだね。それだけの素質はあるように見える。ただ今までの宝塚調とオモムキがちがうから、その方面の良きモデルに不案内のせいではないかと思った。とにかく、宝塚で感じられる最大の欠点は、ここの生徒さん方は、いかにも生活の幅がせまい、ということだ。宝塚的な生態やカラに安心しきっておって、人生や芸術に対して「むさぼるようにドンランな」激しいひたむきな意慾というものは感じられないのである。
最近流行の「ひろい天地をめざして」宝塚をはなれる人々も、文藝春秋五百助氏と同じようにただ映画にでるというだけのことで、ミーチャン、ハーチャン的ではあるが、本当の芸術家の気風とは違うな。むさぼるようにドンランな、すさまじい芸道は感じられない。女優でなくて生徒とよぶのだそうだが、いかにも生徒の勉強に甘んじて、それ以上のドンランあくなき勉強が感じられない。
それでもあの大舞台で坐ったまま動きの少ない主役たちの迫力が消えかからずに、かなり浮き上ってくるから、まア、いくらか、ほめてやってもよい。女子占領軍専用だけではモッタイないところがある。逆上熱狂したがらないタダの人間が見ても結構見られる芝居です。要するに、娘と一しょに気むずかしいオヤジが見ても面白いのです。むしろ「ひろい天地」の映画よりも、こッちの方がバカバカしくないぐらいだ。全体のマトマリもあるし、ふくよかなところもある。日本映画の大部分は低俗だの何だのと云うよりも、本質的にバラックの感じだからなア。バラックというものは芸術ではないのですよ。芸術は必ず本建築だけれども、日本映画はバラックの素質だもの。宝塚はとにかく素質的にふくよかだ。とにかく本建築をめざす精神が一貫していることだけはハッキリ感じられますよ。
ひろい天地をめざしてバラックへ引越すのは、どういうもんだろうね。まア庶民住宅はバラックに相違ないが、芸術家はどんなアバラ家に住んでも、彼の住む限りはバラックではないものだ。
ひろい天地の芸術家でありたいと思ったら、宝塚少女歌劇そのものを、女子占領軍専用から解放して、ひろい天地のものとするように一考し努力さるべきであろう。
なぜなら宝塚は劇団そのものがユニックでもあるし、その技術水準も、他の劇団や映画にくらべて低い方ではありません。私は「雲の会」の会員であるから、文学座を見物したり、新劇運動を応援したりする義務があるけれども、宝塚の生徒さんにくらべると、新劇の女優さんは女子大学を卒業あそばしたりして大そう学がおありだけれども、芸術というものは、学だけではどうにもならない。眼高手低は芸術にならないのである。見ているとハラハラするから、たのしむというわけに参りません。
宝塚の生徒が新劇がやりたかったら、新劇へ加入するよりも、自分たちだけで新劇もやってみることだ。その方が万事につけてユニックだ。どういう新劇が現れるか知れんけれども、とにかくタダモノではない。新劇などというものは先生のまわりへ素人の男女が集まって忽ちでき上って通用するカタムキもあるが、宝塚はそうカンタンにはできない。素人の女が百人集って男なしの劇団をつくっても、それは宝塚にはなりません。とにかく宝塚はバラックではありませんよ。
新劇に限らず、万事につけて宝塚自身がひろい天地をめざす方向へ進んだ方が、結局個人の才能を最も有効にひろい天地に生かすことになりそうだね。時に例外はあるだろうが、とにかく宝塚という母胎は、たいがいの生徒さんの芸よりもユニックですよ。そして、伝説的に人々に考えられているように、決して畸形ではありません。カブキですらも畸形ではないが、宝塚はそれよりも健全だ。なぜならカブキは現代と一しょに生活しているものではないが、宝塚は現代と一しょに生活しているのですから。女子占領軍がいくら特別の逆上性動物であるにしても、あそこまでナマナマしく逆上させるからには現代の芸術にきまっていますな。
松竹少女歌劇にくらべると、宝塚の方が子供ッぽいと云うが、そして松竹の方はたしかに男の子もタクサン見物しているし、なんとなく劇の筋も所作も大人ッぽいところはある。しかし、たったそれだけで大人ッぽいことにはなりますまい。すぐれた童話は大人の読み物だが、それに類することは宝塚についても云えるでしょう。
男役について云えば、春日野や神代の現す男性には気品がある。それは女性が男性に対してまッとうに願望している理想のものを現している気品であろう。それは古代人が太陽神によせて考えた力や気品や理想に似ている。こういう理想の最高のものを願望的に表現しようとする劇の作者や演技者の心構えはこれを古典的、童話的と云うこともできよう。
松竹の方は、もっと現実に近くて、その願望が現世でかなうかも知れないような現実的な理想に表現の目安《メヤス》をおいているようなところがある。そういう現実感が大人ッぽいものに感じられる主要な要素であろう。一方が夢のような太陽神を理想にすれば、一方はお地蔵サマに願をかけているようなもので、どうか月給があがりますように、とか、千客万来お店の繁昌たのみます、というようにお地蔵サマと多くの人々には日常生活上のナマナマしいツナガリがある。コマッチャクレた女学生はそういう現実性を大人のものと考え、宝塚は子供ッぽくて夢のようでバカバカしいと考える。
しかし中途ハンパの現実感は芸術のコンゼンたる構成を損いやすいもので、よッぽど芸が達者でないと危ッかしくて見ていられないものである。
宝塚には危ッかしいところがない。それが何よりである。学芸会の大がかりな余興のような乳くさいところがあっても、そこにコンゼンたる構成があってオヤジが娘の出来栄えにハラハラしなければならないような危ッかしさがなければ何よりの娯楽の一ツに数えうるであろう。宝塚にはそういうハラハラは感じられないし、時には惹きこまれることもある。そして、南悠子の演技がやや性格を表現しているといっても、結局あとで一番つよく残るのは男役だ。男の私にとっても、男役が結局印象にのこった。結局、女性が男に扮することが効果的なのだろう。女が男に扮するにはナマの自分を利用するわけには行かないし、一途に太陽神的な高さを狙うことが陋巷《ろうこう》にアクセクする我々の心に涼風の快味をもたらすオモムキがあるのかも知れない。とにかく畸形の感じはありません。アベコベに効果的なものですよ。まア一度見てごらんなさい。踊り子たちも清潔な感じで、ボンヤリ眺めているには好適なものです。もっとも前夜から行列しないと切符が買えないようでは、とても男の子は割りこめない。
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八月の十七日といえば、どこの学校も夏休ミであるが、宝塚の予科ばかりはやっていました。見学に行ったら、ちょうど日本舞踊とバレエのお時間。ちかごろは日本中がバレエばやりらしく、知人を訪問すると、そこの娘が壁に身を支えて基本のお稽古をしている。同じことをやっていた。小柄のお年を召した女先生が杖をトントン突き鳴らしながら鷹のような鋭い目で一挙手一投足にきびしい注目を浴せている。修身の先生の厳格なのとちがって、芸道の厳格さというものは見た目にも美しいし、かえってホノボノとあたたかい救いを感じるなア。実際、睨まれると石になりそうなりりしい先生だった。
基本というものが確立している西洋の芸術にくらべて、日本の芸道は手ほどきの法がゾロッペイだから、二ツを一度に並べて見ていると、なんとなくタヨリなさが身にしみる感じであった。先生が三味線をひいている。正面に生徒が並んで、立ったり坐ったり扇子をかざしたり歩いたりする。
この動きの基本を定めるとすると、さて、いかなることに相成るか。眺めていると、そういうことが気にかかってくる。日本語の文法よりも、もっと、もっととりとめのない感じだなア。碁将棋には定跡があるし、武術には型があるが、それは基本とは違うようだ。柔道ではまず転び方を教えるが、この方が基本にちかいものだろう。私はボンヤリ考えこんでしまいましたよ。よろず学びごとに基本とか教程が定まらないということは、それを実地に見せつけられると、実にタヨリなく、侘しい気持がするものですね。
予科は一年しかない。翌年はもう舞台にでる。「虞美人」では兵隊さんの多くが今春初舞台の少女たちだそうだ。使い方が巧みだから、ヘタが目立つような稚拙な構成は見られない。今年の一年生は三十一名でABC三組にわかれ、一週の授業は、日舞、ダンス、声楽が各八時間。ピアノ、演劇各三時間。英語と国語が二時間ずつ。楽典と教養が一時間ずつになっている。むかしは礼儀作法から女学校の一通りの学問を教えたそうだが、今は新制中学当年卒業が入学資格で、一般教養はすでに終了と認めて専門教育に重点をおいてるそうだ。
私は三年ほど前に、某撮影所の迎えの人に無理ムタイに撮影所へひきずりこまれて、試写を見せられ、撮影を見せられ、ニューフェイスの教室までのぞかせられたことがある。このニューフェイスの教室にはおどろいたね。これを面白がってムリに一見をすすめる活動屋のキモの太さの方が天下の奇観なのかも知れない。女生徒は女優の卵なみにあたりまえの洋装だが、男の方はみんなアロハのアンチャンそのものだ。先生の講義に耳を傾けているのは一人もいない。隣り同志どころか、あッちとこッちと遠くはなれた同志で遠慮なく語らッているし、たッた十五人ぐらいの生徒のうち常に一人か二人が当り前の跫音《あしおと》で教室を出たり入ったりしているよ。女の子というものは常にあのようにハンドバッグを開けたり閉じたりする習性があるのだろうか、絶える間もなく誰かしらがハンドバッグを開けてのぞいて掻きまわしたり、ちょッと置いてみたり、実にどうも十五人の全員が鳥籠の中のメジロのようにキリもなく動いているね。
講義中の先生は私もその名をよく心得ているその道の大家で、東京と上方《カミガタ》の芸者の作法や習慣の相違を説き明していらッしゃる。拙者がきいてると、大そう面白くて有益なお話で、映画俳優の卵には後日役に立つに相違ない話だ。けれどもビクターの犬の十五分の一も謹聴という態度を表しているのは完璧にタダの一人もいなかったね。よそのお客にこんな天下に類例マレな教室をわざわざ見物させるというのは、国家ならば国辱であるが、活動屋というものはこういうダラシのない自分の学校を喜び勇んでお客に見せる。そのコンタンのほどはとても相分らんけれども、要するに学校だの教室などというものが、撮影所全体にとって全然問題でないことだけは確かだね。ここに奇怪な存在は、それを承知で熱心に講義している先生であるが、別に厭世的な顔色でもないし、悟りをひらいた面持でもない。撮影所というものは全然ワケのわからん風が吹いてるところである。
宝塚の学校にはこんな異様なマーケットの風は全然吹いていません。教室も生徒も他の女学校と見たところ同じようなもので、タダの女学校の教室よりも揃ってマジメに授業をうけているオモムキはハッキリしているけれども、特に血のにじむような気魄がこもっているところは全くありません。要するにヨソ見にふける生徒がいない程度の熱心さなのである。未来のスターの卵と云っても、十五六という年齢は育ち盛りという春の草木のような目ざましさが目につくばかりで、容姿はその裏に没してあまり目立たないのであろう。揃って
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