は、はじめから女になりきらねばならないのだし、ナマの現身がないのであるから、そもそも芸が女に「なる」女に扮することから出発する。これは有利なことでしょう。人間誰しも異性の長所というものは、本能的な理想として所有するものでもありそれが真善美の秘密の支えでもあるのだから、異性に扮し表するところの女らしさ、男らしさは全人格的な活動によって完成されるものであり、また純粋でもありましょう。
女形の色気、色ッぽさが女優以上であるのはフシギではないが、人形の色気がそれ以上にしみるような深い綾を表するのは、女になる前にさらに人間にならねばならないのだから、そもそも芸の出発が人間のタマシイやイノチを創ったり身にこめたりするところから始まらなければならないのだもの、舞台の上に生まれて生きることから始まるのだもの、ナマの身をもつ人間よりも純粋に人間になりきれるのは当然でありましょう。
戦前の宝塚は女学校の表向きのタブーがそっくり演劇のタブーでもあって、セップンなどという言葉すら用いてはならないものであったらしい。その制約は男役が男になりきることをも制約し、つまり完《ま》ったき男女関係は封ぜられておるから
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