、イビツでもあり、ひねくれがちであるが、異性に対しては誰しもアコガレ的な甘ッたるい感情を支えとして見ているのは当り前の話。理想的な長所というものは異性だけが見ているものだ。
長所に扮するということは芸術本来の約束から云っても正当なものであるし、同性に扮する場合は、扮しなくとも自ら一個の同性であるという弱身があるが、異性に扮するにはトコトンまで己れを捨てて扮しきる必要がある。これも亦、芸術本来の精神に即するもので、たとえ同性に扮するにもトコトンまで扮しなければならぬ。舞台の上に新しく生れた一人物になりきって、己れの現身《うつしみ》を捨てきらねばならぬ。舞台の芸術はそういうものだが、異性に扮することは、すでに出発からそのタテマエに沿うているのだ。
自分が女であるために「女」に扮することを忘れている女優は多い。むろん男優もそうである。ダイコン役者はそういうものだ。
そういうダイコン女優は自分の女を恃《たの》みにするから、舞台の上で一人の女になることもできないし、ナマの自分も出しきれない。だから楽屋ではずいぶん色ッぽい女だが、舞台では化石のような女でしかない。
ところが、女形や人形使い
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