制約からくる約束があって、要するにナマの写実やナマの現身《うつしみ》は芸ではないと云っても、それは人間についてのことで、二人の人間が馬の着物をかぶって一匹の馬になったツモリらしくシャン/\と鈴をならして現れる怪物は、それが約束というもんだといくらその道の奥儀を説いてきかせられても、ウーム、そうか、これが約束というものか。実に立派だ。あの役者は馬の芸が達者だなア。あの馬の見栄の切り方を見なよ。これを名人芸と云うんだなア、と云ってほめることができる性質のものではありやせんなア。
宝塚は利巧ですよ。たしかに馬ぐらいはホンモノを使うべきですよ。しかも、使い方が巧妙ですよ。塩原太助にホンモノの馬を使っても変なものだ。なぜなら、人間の役者の方が手拭で涙をしぼりながら、アオよと泣いて熱演しているのに、馬だけがホンモノで全然ヌッとホンモノの馬面を下げているだけでは、どうにもウツリが悪いね。
宝塚の馬は項羽と劉邦がはじめて登場する時に乗って現れてくるだけだ。そして馬上の両雄が、我は項羽なり、我は劉邦なり、と馬上で見栄をきってサッとひッこむ時だけに用いている。両雄の初登場がリンリンと力がこもって目覚ま
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