にタダの一人もいなかったね。よそのお客にこんな天下に類例マレな教室をわざわざ見物させるというのは、国家ならば国辱であるが、活動屋というものはこういうダラシのない自分の学校を喜び勇んでお客に見せる。そのコンタンのほどはとても相分らんけれども、要するに学校だの教室などというものが、撮影所全体にとって全然問題でないことだけは確かだね。ここに奇怪な存在は、それを承知で熱心に講義している先生であるが、別に厭世的な顔色でもないし、悟りをひらいた面持でもない。撮影所というものは全然ワケのわからん風が吹いてるところである。
宝塚の学校にはこんな異様なマーケットの風は全然吹いていません。教室も生徒も他の女学校と見たところ同じようなもので、タダの女学校の教室よりも揃ってマジメに授業をうけているオモムキはハッキリしているけれども、特に血のにじむような気魄がこもっているところは全くありません。要するにヨソ見にふける生徒がいない程度の熱心さなのである。未来のスターの卵と云っても、十五六という年齢は育ち盛りという春の草木のような目ざましさが目につくばかりで、容姿はその裏に没してあまり目立たないのであろう。揃って
前へ
次へ
全40ページ中20ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング