安吾の新日本地理
飛騨・高山の抹殺――中部の巻――
坂口安吾
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《》:ルビ
(例)仆《たお》して
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(例)蘇我|赤兄《あかえ》
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(例)させた[#「させた」に傍点]
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飛騨(実にメンドウな字だから以後カナで書かせてもらいますよ)は日本の古代史では重大きわまる土地であります。
隣りの信濃はタケミナカタの神がスワ湖へ逃げてきて天孫に降参したという国ゆずり事変の最後の抵抗地点で日本神話では重要なところだ。ところが、現天皇家が本当に確立の緒についたとみられる天武持統の両御夫妻帝(天武は天智の弟で、天智の御子大友親王≪弘文天皇≫を仆《たお》して皇位に即き、実質的には現天皇家の第三祖に当られる御方のようです)はヒダとスワの両国に対して特にフシギな処置をほどこしております。スワは信濃の国に属しておりますが、一時分離されてヒダ、スワと二国特別の扱いをうけた。その理由は国史の表面には一度も説かれておりません。特にヒダは古代史上、一度も重大な記事のないところで、昔から鬼と熊の住んでいただけの未開の山奥のようだ。ところが国史の表面には一ツも重大な記事がないけれども、シサイによむと何もないのがフシギで、いろいろな特殊な処置がある隠されたことをめぐって施されているように推量せざるを得なくなるのです。
だいたい日本神話と上代の天皇紀は、仏教の渡来まで、否、天智天皇までは古代説話とでも云うべく、その系譜の作者側に有利のように諸国の伝説や各地の土豪の歴史系譜などをとりいれて自家の一族化したものだ。だから全国の豪族はみんな神々となって天皇家やその祖神の一族親類帰投者功臣となっている。そして各国のあらゆる豪族と伝説と郷土史がみんな巧妙にアンバイされて神話(天智までの天皇紀をも含めて)にとりいれられていると見てよろしい。しかし、神話だから、そのとりいれの方法が正確ではないし、所詮はボーバクたる神話なのだから、似ているがハッキリとそれがオレの国の誰それ様だとも言いかねるものが多いのです。ところが大本教だの何だのと色々の新宗教がみんな天ツ神の本家の化身はオレだと言いたてたがるように、そういう気風や人間の存在は大昔から今までどの土地にも絶えず存在したことで、その気風がやや科学的になると昔の郷土史家、愛郷的考証家というものになって、古代史の似た部分だけをとりいれてみんな自国の伝説と結びつけてしまう。だから、九州から奥州の果まで至るところにタカマガ原だの天の岩戸だの天孫降臨の地があるばかりか、特にその土地の名が古代史にも現れて土地の国ツ神と天ツ神の交渉が若干国撰の神話に残っていると、それに尾ヒレをつけて伝説をつくり、郷土の地名などにムリムタイにコジつけてあの神話もこの神話もとりいれる。時にはあんまりツジツマが合いすぎて、却って恐縮せざるを得ぬほどピッタリとヌキサシならぬ一致を示していることもある。何千年前の神話がそうピッタリするのも困るものだ。
ところがヒダに至っては古代史上に重大な記事が一ツもない。だから古代史や神話と表向きツジツマの合うところは一ツもないのです。そのくせ、古代史家がヒダの史実を巧妙に隠そうとして隠し得なかったシッポらしきものを発見しうるし、その隠された何かをめぐってヒダとスワに特別なそして重大な関心が払われ、その結果として古代史上にヒダに関する重大な記事が一ツもない、そういう結果が現れたのではないかと疑うことができるのです。それは恐らくヒダの史実があまり重大のせいではないためでしょうか。
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古代史家が隠しても隠しきれなかったのは何かというと、まず第一に古代の交通路です。たとえば日本武尊《やまとたけるのみこと》の東征の交通路などを見ると分りますが、上野《こうずけ》ノ国からウスイ峠をこえて信濃へはいってヒダへ出たのは木曾御岳と乗鞍の中間の野麦峠のようだ。この峠のヒダ側は小坂《オサカ》の町です。
推古三十五年(西暦六二七年)に群蠅が十丈ばかりのタマとなり雷鳴のような音をたてて信濃坂をこえ東方上野の国へ行って散ったとある。さきの日本武尊の路を逆に行ったものでしょう。その前年に蘇我馬子が死んでいます。その結果として大争乱が帝都に起って、クーデタの結果としてある氏族の大群が東国へ逃れる事情が起ったのだろうと思います。この族類がこの路に沿うて古くから移動往来していたことは古代史上からも遺跡からも見ることができます。
それから三十余年後の斉明天皇六年(西暦六六〇年)に、こんどは逆に、信濃の東方から西方へ向って群蠅が巨坂《オオサカ》を飛びこえたとある。群蠅が帝都を逃げて田舎に散り隠れる理由がなくなったか、帝都の方で群蠅の帰還助力を必要とする何事かが起ったのかも知れない。
それから四十年ほどの間に斉明、天智、弘文、天武、持統とすぎて次の文武天皇の大宝二年(西暦七〇二年)に美濃と木曾の間に新しく道をつくりました。それから十二年後にも美濃と信濃の境の道が険阻だからと之を廃して木曾路を新設しております。十二年前の木曾路が完成したのか、それを廃して更に新道をつくったのか知れませんが、以上から結論せられる重大なことは、
「古い時代の方が御岳、乗鞍という三千余メートルの高山にはさまれた難険の峠を通っており、次第に海岸側へ、木曾川ぞいの道がひらけている。古代交通の舟行の概念とは逆である」
という一事です。つまり当時の古い交通路は現代の日本人にも困難なアルプス越えであった。ところが、御岳、乗鞍の尾根つづきの穂高、槍、立山、がそれと同じ以前からさかんに里人に崇敬登山せられ、乗鞍を中心にして南方御岳との間に巨坂《オオサカ》の峠があって、北方の穂高との間にはアワ峠が古くから交通されていたようだ。
ヒダの一の宮を水無《ミナシ》神社という。一の宮だが現社格は近代まで県社ぐらいの低いものだったらしく、祭神が今もハッキリとしない。神武天皇と云い、大国主と云い、その他色々で、水の神サマであるか風の神サマであるか、それもハッキリはしていない。ヒダの伝説によると、
「神武天皇へ位をさずくべき神がこの山の主《ヌシ》で、身体が一ツで顔が二ツ、手足四ツの両面四手という人が位山の主である。彼は雲の波をわけ、天ツ舟にのってこの山に来て神武天皇に位をさずけた。そこで位山とよび、船のついた山を船山という」
これはヒダの国守であった姉小路基綱のヒダ八所和歌集裏書きの意訳ですが、これがだいたいヒダの伝説の筋です。
現に水無神社のすぐ近くに位山と船山とあり、山上には巨石群、古墳群があるそうですが、しかし前文の作者は、
「位山は諸木の中でも笏に用いる一位《イチイ》ノ木が多い。麓をまわれば二十余里、宮殿(水無神宮の由)の奥、また府(現高山市)から麓まで七里余」
とある。位山と船山は高山や水無神社から頂上まででも一里半か二里ぐらい。里数が違う。そこで、位山は乗鞍だというのが郷土史家の定説である。むかしは乗鞍を位山と云った。位山が乗鞍を指すのであると多くの史料に見られる位山の記事にピッタリする。その代り、こまったことには船山がない。水無神社の歴史という本には、八所和歌集の記事からだと乗鞍にも当るし現在の位山にも当ると云っている。
しかし乗鞍の麓には船山はないが船津がある。今は神岡町であるが、昔から有名な船つき場で、今の町名の神岡が古い名かどうか知らぬが、船津が同時に神岡なら、これを船山と解して悪くもなかろう。神通川をさかのぼって船津で船をのりすてて乗鞍へ登った。天ツ船は神話では山上へ到着するが、神通川をさかのぼって舟行の限界点として適当な船津でのりすてた。そう俗に、現実的に解して悪くはないであろう。船津の隣り字は石神だの阿曾布だのとこの氏族にふさわしい古い地名が多い。このあたりは昔はスワと云い、今に古スワの地名がある由。舟をすてた最初の聚落がスワで、乗鞍を越えた信濃側にもスワがある。
しかし、乗鞍に位山の古い呼び名があって現に山神崇拝のあとの巨石が多く見られ乗鞍権現もあるけれども、信濃側の信仰からみると、この氏族がヒダから山越えした最初はむしろ穂高で、穂高を梓川まで下ッた現在の穂高神社の地がこの氏族の信濃開拓の交通要所、重大な分岐点をなしているらしい。つまりこの氏族の発展根拠地点でもある。松本の平野へ、またスワへ、伊那へ。遺跡から判断して三ツの古代人の発展方向のその重大な分岐点、聖なる根拠点たる穂高神社。又その山上たる穂高の峯は信濃側の信仰からは一ノ山と見られるのが自然かも知れん。そして船津へついた一行が登るとすれば、乗鞍よりも穂高の方を選ぶのが自然かも知れないのである。その二ツの中間のアワ峠が一番古くひらけた道のようだ。
この氏族は船津上陸当初は谷沿い道よりもむしろ尾根づたいに歩いていたと見られる。穂高中心に北には立山へ、南には乗鞍、御岳へと彼らは尾根づたいに往復して立山と御岳から低地へ降り、もしくは中間の峠を降りた。御岳を尾根づたいに南下すると三国山と云って、ヒダ、シナノ、ミノ、三国の境、そのヒダ側が竹原村で、そこが尾根から低地へ降りる南限の地点と想像される。今もスワ神社の神事にスワ湖の氷上渡御というのがありますが、これは穂高から御岳への尾根通行を湖水に当てはめたもので、あの氷のワレやモリ上りは一方には中間の乗鞍のクラにのるという意味と、氷がわれるということで通過の雪どけを待つ意味の通交の祈願のような気がします。
竹原村大字宮地の川合平に日本に珍しい枝垂栗《しだれぐり》の自生地がある。この栗の自生地は他にシナノの某山その他二三しか見られない由であるが、この木のある所は立山から尾根を通る神様の休憩地だから、これに触れると神罰をうけて病気にかかる、と里人は怖れて伐ることがなかったから今日に残ったと里人に信ぜられている。これは尾根を往復する一行の目ジルシでもあり、或いはこの木の実は彼らが故郷たる異国から持参して通過や居住の地ごとに植えつけてきたものではなかろうか。
さて、船でヒダへ来て神武天皇に位をさずけた位山の主《ヌシ》のことを姉小路基綱の八所和歌集は一体にして顔が二ツ、手足四本、これによって両面四手と云う、という、この怪人物は日本書紀にチョッピリと記事があって、仁徳天皇六十五年の条に、
「ヒダの国に宿儺(スクナ。以後カナで書きます)という者があって、躰は一ツ、顔が二ツたがいに後向きについてる。各々の顔に各々の手足がある。力強く、早業で、左右に剣をさし、四ツの手で二ツの弓を同時に使う。皇命にしたがわず、人民をさらッて楽しみとするので、難波根子武振熊《ナニワノネコタケフルクマ》をつかわして殺させた」
とある。ただ、これだけの記事があるにすぎません。もっとも、そのほかに彼の異形のサマを説明して、顔が二ツだが、頂《イタダキ》合いて頸《ウナジ》なし、つまり二ツの顔の後頭部はピッタリとくッついて一ツになってるという意味らしい。また、膝ありて膕踵《ヨボロクボ》なし、ヨボロクボはクビスの由ですが、この文章からは様相の見当がつきません。
ヒダではこの怪人物を両面《リョウメン》スクナと云っています。書紀ではクマソか酒顛童子のような悪漢としてカンタンに殺されてますが、ヒダではこれが天の船で位山へついたという日本の主《ヌシ》で、大和の敵軍が攻めてきたとき、ひそんでいた日面《ヒオモ》の出羽の平のホラアナをでてミノの武儀郡下ノ保で戦い敗れて逃げ戻り、宮村で殺された。その死んだ地がヒダ一の宮の水無神社であるという。
スクナがひそんでいた出羽ノ平のホラアナは今もあってスクナ様のホラアナと怖れられて、そこへ誰かが登ると村に祟りがあると信じられております。私はそのホラアナ(鍾乳洞ですが)へもぐりこんできました。スクナ様の祟りかも知れませんが、ヒドイ目に会いました。残念ながらまったく半死半生でしたよ。
そこは高山から平湯、乗鞍の方へ五里ぐら
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