い行った丹生川《ニウガワ》村の日面《ヒオモ》というところで自動車を降り、スクネ橋を渡って道の幅一尺か二尺ぐらいのキコリ径を谷ぞいに山にわけいる。歩くこと十五分か二十分ぐらい。そこからキコリ径をすてて径のない山腹をよじ登る。この悪戦苦闘、余人は知らず、拙者ならびに同行の大人物は一時間ですよ。
 長い間ふりつづいた梅雨がやんだばかり。特に前日は大豪雨でヒダの谷川は出水があった。その翌日だ。両手にすがるべき木の根がみつかると安心ですが、手にさわるものは概ね朽ち木で、つかまると折れたり抜けてきたりで、確実な木の根や枝を見出すのが大変だ。足場にかけた岩まで長雨で地盤がゆるみ土もろともグラグラぬけだす危なさ。案内人が方向をまちがえなかったので助かったのですが、さもないと疲労にくたばって谷へ落ちたに相違ない。途中ロッククライミングが二ヶ所。ここだけ針ガネをたらしてありました。しかしブラブラたれてる針ガネだから握ってもすべるし、岩もぬれてすべる。手も足もかけ場に窮して、一息でも気力を失うと墜死するところでした。
 こんな難路とは知りませんから、豪雨の直後という悪条件を考慮に入れる要心も怠り、特別な用意が一切ないから、服は泥だらけ。それまでの調査のメモをコクメイにつけておいたノートを四ン這いの悪戦苦闘中にポケットから落して紛失しました。しかしイノチを落さないのが拾い物さ。こッちは商売だから我慢もできるが、同行の大人物には気の毒千万で、彼は翌朝の目覚めに寝床から這い起ることができないのです。必死に手足に力をこめても、二三分間は一センチも上躰が持ちあがらないのですよ。私のことは言わぬことにしましょう。この記述の方法を日本古代史の要領と云うのです。
 この難路をどうして予知しなかったかというと、里の人はスクナ様のタタリを怖れて登らぬし、里人への遠慮かそれはヒダの全部の人々にもほぼ共通して、相当の土地の物知りも登っておらず、昔の記録に日面《ヒオモ》の出羽ノ平のホラアナとあるから、谷川をさかのぼると出羽ノ平という平地があってホラアナがあるのだろうと考えている。
 これが大マチガイで、谷川を一足はいってからは平地が全くなく、鍾乳洞まで登りつめても全然平地はありません。しかし、この山頂の尾根づたいの山上に平地があるらしい。正しい地図を見ると、そうらしいのです。その山上の平地が出羽ノ平かも知れません。
 鍾乳洞はいつの時代か人々が斧で穴をひろげた跡が歴然たるものです。十間も行くと四ン這いになるところがあるが、そこをくぐって廊下のようなところを這い登るとだんだん広くなって、相当の大広間になり、そのマン中あたりにナワのような太さの水流が落ちているところがあって、自然に石像のように変形した濡れ石ができていた。その広間も人工でひろげたものです。水気はわりに少く、天井の石をくずしてひろげたからツララもなく、水のたれるところに大きくても一寸四方ぐらいのカブトのようなのが出来てるだけです。相当の人数がひそみ隠れていられるでしょう。
 両面スクナはその形がシャム兄弟(一卵性双生児の背中がくッついて一体となったもの)のようですが、神話にはあらゆる畸形の怪物が現れますから、それらの何かは現実の畸形児に当然似ますけれども、もともと神話はツクリゴトで、そッくり現実的に解すのはなるべく避けるのが自然でしょう。
 私は千光寺の両面スクナ堂でこの像を見ましたが、背中合せに同じ一体の人間が一体になっております。前後両面全く同じです。そしてその頭は神功皇后のカミのような男装の女だか、女装の男だか分らんようなふくよかな美貌でしたよ。書紀によると「力が強く、早業で、四本の手で二ツの弓を同時に射た」とありますが、このスクナの像は弓を持たずに、斧をもっております。そして、他のヒダのスクナ像も必ず斧を持ってる由です。
 両面という意味は山上に住んで両側の二国を支配した意と解すのが郷土史家の定説の由ですが、穂高か乗鞍か、または立山から御岳を結ぶ尾根全体を神の住居として両側の美濃(ヒダは大昔はミノと一ツの国でした)と信濃の両国を否、両側の日本全てを支配していたと、見るのは当を失したものではありません。
 しかし、一体二面をシャム兄弟と見るのはコジツケすぎるが、ただの双生児かも知れないと想像することはできます。そして古代史に現れる双生児の中で一番有名なのは大碓小碓のミコト。その弟、小碓の方は日本武尊のことです。そして、このミコトが東征の時、天皇がセンベツに斧を与えたのは有名な話。しかし、これをオノ、マサカリと支那の字義通りによんではならぬ、単にセンベツのミシルシと読み解するようにと後世の学者は妙な読み方をでッちあげていますが、斧は当然斧でしょう。
 書紀はそうでもありませんが、古事記によると、このミコトの運命は悲惨です。熊襲《くまそ》征伐の時も天皇が自分を殺すために旅にだすのだと嘆き、東征の時にもいよいよ自分は生きて帰れぬ、天皇は自分を殺すツモリだと嘆いています。そのときミコトに刀を与えたりして励ましているのは、伊勢と熱田の斎宮の皇女ですが、さて双生児の一方はというと、書紀の伝えでは天皇が兄をよんで、熊襲は弟の日本武尊が平げたから東のエミシはお前がうてと命ぜられたが弱虫の兄は顔色を失ってしまったから、そんな弱虫は勘当だとヒダへ流されたという。そしてこの皇子は守君とムケツ君の祖だと云うてますが、ヒダへ流されてからのことは何も伝わっていません。古事記によると、ミノの神大根王《カミオオネミコ》の娘に兄ヒメ弟ヒメという姉妹の美人があるときいて天皇が二人の美女を連れてくるようにと大碓命をつかわした。ミコトは二美人と仲よくなったあげくニセモノを天皇にさしあげて自分は二美人とたわむれて朝礼も怠ったから、日本武尊に命じて兄に朝礼するよう忠告せよとつかわされた。日本武尊はその兄をつかみ殺しひきさいて棄ててしまったから、天皇はその蛮勇を怖れ、諸国の悪者退治にだして殺そうとされるに至ったというのである。ミノは当時はヒダも含めてミノであるから、記紀いずれの説にせよ兄大碓はヒダの地と深いツナガリがあるのです。しかし大碓命のヒダの伝えや跡は殆どなくて、三河の狭投《サナケ》神社の縁起に大碓命はサナケ山で毒蛇にかまれて死に当社にまつる、とあるそうです。
 ここで注意すべきは、古事記の景行天皇紀というものは大碓小碓双生児のみならず、主要な登場人物が必ず二人、分身的な兄弟姉妹であることで、日本武尊の退治た熊襲も兄弟、大碓命の愛した娘も姉妹である。そして、日本神話には、兄弟、姉妹、二組ずつの話は甚しく多いが、特にこの類型の甚しいのは神武天皇紀に見られるのであります。
 このように主役がそろって相似の二人であることは二人合せて一人であることを意味する場合もあるだろうと思います。もっともフィクションの作法から云うと、分身の一ツが真実を解く暗示であって、暗示の役割の方は端役的で目立たない。他の一方の、つまり暗示のカギで解かれる人物の方は表向きの主役であるが、これは真実が歪めてあって、その分身の暗示することをカギとして解明しうるものが真相であるらしい。
 たとえば日本武尊が景行天皇にうとまれて天皇は彼を殺すために諸方の悪者退治にだされたというのは、表向きで、実際は兄大碓命が暗示するように、彼はヒダかミノに住み、ヒダかミノの王女と結婚して諸国を平定しつつあった豪傑であり首長であった。古事記の伝えが天皇に殺意ありと云うのは、景行とは血のツナガリなく、実は本来敵として対立する両氏族の両首長を意味するらしいのですが、そのわけは後の方で明かになります。
 日本武尊をこういう方と見ると、ヒダに伝わる両面スクナの一生に似てくる。両面スクナを退治したのは仁徳六十五年、武振熊《タケフルクマ》であるが、この人物はその百何十年前の神功皇后時代にも他にただの一度だけ史上に現れて、この時は武内スクネの命令でカコサカノ王《キミ》、忍熊王《オシクマノキミ》の二兄弟を殺している。この二兄弟は仲哀天皇の次に皇位に即く筈のところ、神功皇后は仲哀の崩御を隠して他に知らせず、それは誰か他の人に皇統をつがせる手段らしく思われたので二人の兄弟は反乱を起した。そして兄は山中で赤猪に殺され、(山中で白猪に会ったのが落命のもととなった日本武尊に似ている)弟は武振熊にあざむかれて武器をすてたところを敵軍に追いつめられてビワ潮へ身投して自殺し、長く屍体があがらなかった。この最後は日本武尊の屍体が白鳥となって飛び去り、墓がカラだというのに半分だけ似ています。尚、先帝の仲哀天皇自身も熊襲退治のとき敵の毒矢で死に、これがヒダのスクナ伝説のスクナの最後(敵の矢で死ぬ)に半分似ているし、兄大碓がサナケ山で毒蛇にかまれて死んだというのにも半分似て、矢と毒を合せると同じ一ツになる。なお似た話はタクサンあって全部はとてもここに書ききれません。
 武振熊《タケフルクマ》は国史上にたッた二度それも百何十年も距てて突如二度だけ現れて忍熊二兄弟の一方をダマシ討ちにし、次に両面スクナを退治しています。二度しか現れんのも双児や兄弟と同じ意味や同じ原則を示していると解し得るでしょう。
 そしてまた双生児やその類型の兄弟は一方が他の一方のカギの暗示である場合もあるし、兄弟二人の運命がまったくアベコベであるという意味を寓している場合もあって、つまり一方は被害者、一方は加害者のアベコベの二つを示す意味もある。
 つまり日本武尊は熊襲兄弟を殺した。その殺し方は女に変装して安心させておいて刺し殺した。ところが武振熊は忍熊王をだまして武器をすてさせて殺した。全く同じです。しかも熊襲タケルは死ぬ時にミコトに向い、自分が一番強いと思っていたらあなたはもっと強いから私の名のタケルをとって日本タケルとよびなさいと自分の名を彼に伝えさせている。それは熊襲タケルの運命をそッくり負うてるものが日本武尊でもあって、つまり日本武尊が実はクマソと同じ運命の人であると暗示している如くにも解せられる。そして両面スクナと忍熊王とはともに武振熊によって殺されているが、スクナは熊襲タケル的に、忍熊王は猪に殺された兄の方と合せると日本武尊的に殺されている。これを綜合するとクマソを殺した日本武尊は、自分がクマソを殺した方法で武振熊に殺されてる。また武振熊に殺されたスクナは、書紀では日本武尊に殺されたクマソ的であるが、ヒダの伝説では日本武尊の殺され方と同じで、要するに日本武尊兄弟、忍熊王兄弟、両面スクナは同一人物で、スクナは一体で顔二ツというのが変っているだけですが、このことは、これらの兄弟の神話は二人一組で一人をさし、もしくは、たった一人の史実をいろいろの兄弟や双児の二人組にダブらせて、その綜合でその一人の真相を暗示していると見ることもできます。
 ほかに兄弟神話はというと大ナムチとスクナヒコナが同一神の大国主をさしているらしいのが神話中の第一の大物で、次に神武天皇紀が登場人物の多くにわたって両面的に、フタゴ的である。
 神武天皇自身すでに五瀬命《イセノミコト》という兄があって、神武と共に力を合せて戦ううち日本平定直前にチヌ山城水戸で敵の矢に当り、古事記によると途中血だらけの手を洗ったところを血沼《チヌ》海と云い、人に負われて紀国男水門に行って雄叫びをあげて死んだと云うが、書紀は紀伊カマ山まで行って死んだ。とにかく死に場所はハッキリしないが、そのカマ山に葬ったとある。これも両面スクナの正史と伝説の両面、つまり正史においてはクマソ日本武尊の二ツによく似ています。五瀬命は恐らく伊勢大神宮の重大な隠し神様、荒ミタマだろうと思います。そして実際は今の天皇系ではなく反天皇系の大親分の運命を暗示する一ツでもあって、伊勢が内実はそういう面をもつ神でもあることは、伊勢と吉野と近江、それから隠され里のようなヒダ、スワ等のその後の史実が語っております。つまり主として天智後の戦争のたび、又はその平定後、そして平安京が本当に安定する頃までの期間というもの、それらの国々に対し、またその時々
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