はないでしょうか。
 そして次の元正女帝に至って、ミノの行宮へ行ってタド山の美泉をのんで、あんまり霊験イヤチコだからと、年号を変えて大赦を行っているのです。
 なるほど、書紀に表現された日本武尊の伝によると、近江ざかいにちかくて伊吹山にもちかいタドの美泉が死なんとする日本武尊を一度正気に返した清水だということになります。
 しかし実際に日本武尊、否、大友皇子、否、天武天皇との戦に敗走したさる高貴な人が美泉をのんでいったん死をまぬかれた聖泉というのは、前述の如くに書紀の記述が両面神話の要領によりアベコベであって信用できないとすると、書紀の示す美泉は正しいタドの美泉ではないことになる。スクナ伝説ならば藍見の喪山の近所にあるべき泉であろうし、ワサミを下原村あたりとするなら、下呂に当るかも知れん。二ツのどちらか、それは見当がつきかねますが、とにかく書紀の示す美泉がタドの美泉でないことは確かだ。しかし、自分の御手製の史書ではそれがタドの美泉に当るから、それは自分の言ってることに従うべきで、さもなければ自分のウソを広告するようなものだ。そこで、タドの美泉は霊験イヤチコで、改元し、大赦を行うに価いするほどであると云って、ヒダ人が神聖なる霊地とする泉をトコトンまでほめあげた。
 天武帝が筑摩の温泉へ行宮をつくろうとしたのも、シナノ側にもある神聖なる霊泉をほめたてて敵を喜ばせて敵にとりいるコンタンであったかも知れません。
 養老三年にヒダの位山のイチイの木で笏をつくることを故実ときめたのも、ヒダを喜ばせてヒダにとりいるコンタンらしい。
 しかし、それから二年後には信濃から諏訪を分離して、ヒダとスワの二国を合せてミノの按察使の支配下においた。その時まではヒダには国守を送った記事は一度もなくて、養老五年に至って、ヒダとスワの二ツを、一まとめにしてミノの按察使の支配下においた。そして国守は送っておりません。甚しい特別扱いですが、それでも一歩前進して、とにかく、ヒダにカントク者らしき者をきめ、ヒダの支配者たる形式に一歩ちかづいたものと見られましょう。敵の霊泉をほめたたえた計略がだんだん図に当ってきたのでしょうかナ。
 次の聖武天皇の時代には、ミノの不破頓宮で新羅楽とヒダ楽をやらせたという。この不破頓宮は元正行幸のタドに近い不破の関ではない筈です。これはワサミかワサミに近い実際の前線指揮処だっ
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