。その二人の一人が行心で他の一人がトキの道ツクリ。これは伊豆へ流されています。
こんなバカバカしい裁判があるでしょうか。これは苦心サンタンの計略だろうと私は思う。天武帝が必死の如くにヒダの神を祭っておがんでいるので分りますが、ヒダのタタリやその反撃が何より怖しい大和朝廷だったのでしょう。そこで、天武の死を機会に、自分の最愛の皇子の一人をヒダの皇子か天皇かの運命と同じものにさせた。ムホンを起したことにさせた[#「させた」に傍点]のです。そして、殺してしまった。しかし全然ムホンは実在しないから、無実の一味の者を本当に殺すわけにゆかない。新しいタタリも怖しかったでしょう。それでも、悲しい辞世をのこして泣く泣く死んだ皇子をジッと見送ったのは、ヒダに対してよほどのことがあるからだ。皇子の辞世に「百伝《モモツタ》うイワレの池に泣く鴨を云々」とありますが、それは百代万代伝わるべき我が家のギセイとなって、という意味ではないでしょうか。
そして、他にたった二人の一味の曲者だけ流刑になったのも計略で、こうして愛する皇子をムホン者に仕立てて殺して、その一類を流刑にする。ヒダと伊豆に対して。そういうカラクリをめぐらしてまで、まるめこむ必要があったように思うのです。行心という名の方は普通ですが、伊豆へ流された「トキの道作《ミチツク》り」という氏名は、彼の秘密の役割をチャンと語っているではありませんか。
持統天皇即位前記の条に「この年蛇と犬と交ってニワカにともに死んだ」とありますが、これはヒダとシナノが反乱したことを表していると思います。日本武尊は信濃では犬に助けられてその兄大碓はヒダで蛇で死んでますが、だいたいシナノは犬養だのカラ犬だのと犬に縁が多いところで、ヒダはヘビに縁が多いところです。
次の文武、元明両帝は各々信濃坂が険しいからと、ミノ木曾間の道をひらいております。つまり今までのヒダ、シナノ間の道が危険で通れなくなったからでしょう。そして、これによって知りうる他の一ツは、平地の道や川の舟行よりもアルプス越えの道の方が早くできていた、という一事で、ヒダは馬の国だと云われ、ヒダの騨の字はそのせいで後日改められたと云われるぐらいですが、書紀にもスクナの早業[#「早業」に傍点]という特徴が書き加えられていた如くに、彼らヒダ人はこのアルプスの難路を馬にのって風のように走りまわっていたので
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