は屍体は白鳥となって墓から飛び去ったと云いますが、大友皇子も首を持ち去られてしまった。その他、忍熊王、五瀬命、天ノワカヒコ等、いずれも屍体が一時は見つからなかったり喪屋を斬りふせ蹴とばされたりする始末で、死体がなかったり墓域が荒らされたりするのがこの型の神の宿命であるらしいから、水無《ミナシ》は身無《ミナシ》で、その墓に屍体がないという意にも解せられないことはない。昔の神社はその社殿の後にたいがい古墳があるものだ。水無神社のうしろには古墳がない。しかし五六丁離れて存在するオミコシの旅所が古墳だろうという説もある。ここは神楽丘とよばれております。
こう考えると、両面スクナの分身の片面は天皇たるべき人であったに相違ないように思われる。そして、それが天武天皇によって亡ぼされたこともほぼ確実でしょう。なぜなら、天武帝はヒダの主たる神を大和へうつして一年に何回も勅使をさしむけて拝ませており、しかもその神が風の神と大忌みの神だから、タタリを怖れての策であるのは一目リョウゼンであります。
ところが、官撰国史はこの二柱の神がヒダの神だということを決して書かないのです。元来大和に祭られた神であると人々に信ぜしめようとしている。これは壬申の乱がヒダで行われたにも拘らず、ヒダということが完全に隠されている、ということを裏づけるものだろうと思われます。
そしてホンモノのヒダの神様にはなかなか位をやらなくて貞観九年にはじめて従五位下《じゅごいのげ》をやり、延喜式神名帳では、ヒダは全部でたった八ツの神で、それも全部小ですよ。大社というのが一ツもない。実に冷遇虐待せられておって、そのくせ別の神様として大和に祭られた方は大も大、大そうな扱いで伊勢の外宮の分身となっておるのであります。
こうして、天智、弘文(大友皇子のこと)、天武と日本史上に於てはじめてホンモノの人皇が定まったらしい重大きわまる時期に、ヒダの国だけは一度も史上に名が出たことがなかったのです。隣国で皇位相続の大戦争があって一度も名がでてこないのですよ。
ようやく持統天皇の朱鳥元年になって名が現れた。それはどんなことでかというと、天武帝が死ぬと大津皇子がムホンをたくらんで死刑になった。その一味の曲者であるというので、行心という新羅の坊主がヒダへ流されたのです。大津皇子は殺されましたが、その味方した曲者は二人残して全部ゆるされた
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