た行在所で、つまりその地点で天皇が大友皇子の首実検をしたところだ。そこもヒダ人の聖地中の聖地であった筈であります。ヒダ楽は分りますが、新羅楽の方は大和朝廷側の音楽なのかも知れませんな。両者の霊なる楽の音で死せるミコを慰めたのでしょうか。
まもなく諸国に国分二寺を建てさせたが、ヒダにも建てた。このころから、どうやら税も命令するようになった。ヒダだけ按察使の支配に属していたのが、どうやら他国なみに国守を送るようになったのは称徳天皇の時からです。
しかし、ヒダの統治はなかなか思うようにいかなかったようです。ヒダと出羽に風が吹いた、とか、ヒダに慶雲が現れた、とか、一喜一憂で、(気象台にきかなくたってヒダと出羽にだけ大風が吹くのは妙でしょうが)ヒダの国分寺がたちまち焼けたのも、焼かれたのかも知れませんナ。空海も巡錫したが、そう効果もなかったようです。
私の見解では空海の弟子の真如がヒダへ行って千光寺をつくった。この時から次第に好転して、ヒダがだんだん他国と同じような領国になったように思います。
真如は廃太子|高岳《たかおか》親王の僧名です。親王は嵯峨帝の皇太子だが、その先帝平城の御子です。平城上皇に薬子の乱が起ったために、高岳親王は廃せられて、空海の弟子となって仏門にはいった人です。
しかし、廃太子の真如がヒダへ行って千光寺をつくる前に皇太子恒貞親王のムホンに連座してヒダへ左遷された橘末茂がおります。このムホンというのが、また、どうも、これもヒダを相手にしてのカラクリのようだ。
先に帝たりし嵯峨上皇の死をキッカケに恒貞皇太子がムホンして捕った。ところが死んだ嵯峨上皇はかつて自ら高岳親王真如を廃太子にしているし、おまけにちょッと前に淳仁上皇の死を送ったばかりで、ここ何代というものは誰の代も例外なしに皇太子のムホンだなんだと廃太子つづきである。これもヒダのタタリかというような考えが強かったようだ。彼の遺言をよむと、それがハッキリします。人間死ぬのは当り前で厚く葬るほど愚なることはないから、棺はうすいのでタクサンだし、ムシロで包むがいい。着物もフダン着てるのでタクサンだ、という。まさか、首と胴を二ツにチョン斬って棺に入れろ、とは言わないけれども、殺されたヒダのミコが自分の先祖を埋められたと同じような扱いで自分の葬式をやれと遺言しているようです。
こういう遺言のあとで、
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